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誰のためにもならない文

不意に、誰のためにもならない文を書いてみようと思いついた。
だから本当に、何を書くのか、今の時点でまったく思いついておらず、とりあえず「ダッサイ自分をさらしてみる」そんな副題だけが、頭に浮かんでいる状態である。

何を書くのか(正確にはタイプするのか)よくわからない。

ただ、この「誰のためにもならない文」を書こうと思ったきっかけだけは明確だ。今日、とある講座に参加し、そして時間の使い方について考える時間があった。

私たちの日常には、いかに「have to」が満ちているのかというのを思い知らされた。

例えば、私は自分でビジネスをしている。
そうすると、確定申告なるものがもうすぐやってくる。だから、その準備をしないと、となるわけだ。

じゃあ、それが本当に、心の底から自分が望むやりたいことなのか、と問われたときに、

(あれ?)

となる。もちろん、ビジネスは自分で好きでしているから、「want to」のはずなのだ。なのだけれども、その「want to」をするために「have to」が発生していて、じゃあ、そもそもこの「want to」は本当に「want to」なのか?

もしも次の瞬間、自分の命が終わるとして、

「ああ、悔いのない、心の底から満足する人生だった」

と、腹の底から祝杯があげられる状態なのかと問われたら、きっとそうではないのだ。

とすると、今、自分が計画している、やろうとしていたアレやコレやというのは一体なんなんだろう? 何のために、コレをやろうとしているんだろうか?(念の為、断りを入れておくと、確定申告をしない、という意味ではない)

そもそも、理由なく何かをやることはいけないことなのか?

ただぼーっと、美しく変化していく夕焼け空を眺めてみる。
ただいただくお米のおいしさを噛み締めてみる。

そして、そこには、「何のために?」が存在しない。
ただ、「夕焼け空」の美しさだけに浸る。
ただ、口の中に含んだお米の一粒一粒を味わう。
そんな行動は、決して許されないのだろうか?

なんてことを今日の講座では考えさせてもらった。

私たちの日常は、常にタスクに追われていて、効率化であったり時短であったりというものにあふれている。
ビジネス書も、そう言った内容のものが多い。事実、私自身、タスク管理術であったり、時短であったり、マルチタスクであったり、といった本に目を通したことは過去に幾度もある。速読をするための本も数冊読んだ。

そう。
ただ、「本を読む」のを楽しむ。
これで、本当はいいはずなのだ。

仕事を効率化するために読む。
こなせる仕事の量を増やすために読む。

ではなく、ただ一文一文を味わう読み方。

そんな読み方だって、存在しているはずで。
それで、個人的にはどちらが好きかというと、「理由なく一文一文を味わう」であったりする。

私の仕事はコーチなので、未来を描いて、そして未来のために何か行動することも大切であると考えている。ただ、すべてにおいて、そうである必要もないと改めて感じさせられた。自分がありたい姿に沿って、どっちも選べるのがいいのだろう。

未来を描いて、未来のための行動を選択する。
その一方で、ただただ理由なく「今」を味わい、「今」に浸る。
そんな瞬間が、日常に散りばめられていてもいい。
そして、意外と、そんな無意味な時間の体験から気づけることであったり、学びであったりが深いことだってある。

帝王学には、こんな言葉があるそうだ。

「土を取りに行くな」

土、とは魅力本能であり、成果・結果にもつながる領域。
つまり、成果・結果を求めてことを行うな、今、この一瞬一瞬をただ一所懸命、心込めてやれ、という教えだと理解している。

だから、気づきを得よう、学びを得ようとして、無意味な時間を過ごすことはきっと本末転倒になってしまう。それでも、ただただ、自分で自分の生活の中に、意味を与えない、「ただやる」を時間を設けてみるのは、実はある意味、心の豊さにつながるのかもしれない。

そんな気もするのだ。


うん。
誰の役に立つかはわからない。
ただ、思うがまま、感じるまま。
あえて「何かのため」を手放して、思いつくままに文を綴ってみた。

もしもあなたの心を動かす何かがあったら、それは、とても光栄なこと。


最後まで、お読みいただき、心から感謝。

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