自宅での看取り

医療者は、人の「死」をたくさん経験します。

突然の「死」
病気と向き合いながらの「死」
いわゆる老衰とよばれる人生を終えるような「死」

亡くなる場所も病院だけでなく、施設での看取り、自宅での看取りも増えてます。

今の日本で生活をしていると「死」は「忌み嫌うもの」という考えがまだ強く残っているためか、家族も含めて「死」を身近なものに考えている人が少ないようにお思います。

 今年ももう終わりそうですが、3人の方を自宅でお看取りさせてもらいました。
一人の方は、1年程前から通院するのが難しいぐらい歩くことが出来なくなりました。よくよく聞くと急な階段を上った2階で生活をされていました。病院に行くときは娘様が支えながら階段を降りていたのでした。「病院に通うのが難しいようでしたら、ご自宅に伺いますよ?」と訪問診療が始まりました。実際に階段を上ると私でも少し怖いと思うような急な階段。介護されていた娘様も大変だっただろうなと思います。食事量が減り、ベッドで横になっている時間が長くなってきて、少しずつ、少しずつ、反応がなくなってきました。自宅で介護されていた御家族もその時間を大切に過ごされていたように思います。遠方の御家族も顔を見ることが出来ました。とてもいい時間を過ごされたように思います。亡くなられて2ヶ月ほどしてから、スーパーで娘様とバッタリお会いしましたが、お元気なご様子で「あら!先生。その節はどうも!」と笑顔を見せて下さいました。素敵な御家族でした。

 もう一人の方は、遠方在住の方でしたが、御家族が僕の病院の近くに住んでおられることがきっかけに受診されて、そのまま御家族にお会いになるついでに通院されていました。元々の持病があり、半年を過ぎた頃から調子を崩され、入院が必要かな?と思っていた矢先、持病のコントロールがつかず、近隣の3次医療機関へ入院することになりました。たくさんの科の医師が治療を尽くして下さったのですが、思うように回復は難しく、私の勤める病院へ転院して療養をすることとなりました。ただ、転院されてからも意識がはっきりせずせん妄状態が続き、持病の治療も継続が出来ないことや御家族と面会も十分に出来ないことも考え、御家族と話し合った結果、在宅へと移行することにしました。御家族のご協力もあってスムーズに移行ができ、私や訪問看護師が訪問をさせていただきました。この方も、たくさんの御家族が入れ替わり立ち替わり、会いに来られてました。ひ孫にあたる子が、きゃっきゃっとはしゃいでいるのもとても印象深かったです。日常の中に死にゆく命がある。そして、次の世代の方々が感じ、また次の世代へとつないでいるような感じでした。
 ご本人も、ご自宅に戻られてからは穏やかに過ごされ、亡くなるまでの間御家族と、ゆっくり過ごされました。

3人目の方も、都内でずっと生活をされていた方ですが、入院を契機に自立での生活が困難となり、認知症の進行もあって、食事を取らなくなりました。御家族が私の勤める病院の近くに住んでおられたので、こちらで療養したいと転院となりました。ただ、こちらに来られてからもお食事は口の中に溜め込むことが多く、ときにむせてしまうこともありました。御家族と話しあって、看取りは家でとなりました。自宅に戻られて一週間で亡くなられましたが、やはり家族と過ごした最期の時間はとても穏やかだったようです。

 家族と過ごすことや、住み慣れた場所に最期までいられることを望むかたには、希望が叶うようにしてあげたい。そして、2人目の人のときのように、小さい子供が、近くで走り回っていてもいいと思うのです。「死」が日常にあるということを家族が共有できる時間があっても。

 死は誰にでも訪れるもの。平等に。どんなふうにやってくるかはわかりません。どんなタイミングで来るかもわかりません。年齢すらも関係ありません。最期のときは穏やかでありたいものです。

 生きている時間が有限であることを意識し、今この瞬間生きていることに感謝。



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