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【第57話】キッシュが冷たくなるまえに

  喉の渇きで目が覚めた。ベッド横のサイドテーブルに手を伸ばしてスマホを手に取ると、暗い室内の中でディスプレイの明かりが枕元を照らす。眩しさに目をしかめながら画面を覗くとデジタルの文字は3時15分を示していた。まだちょっと酒が残っていて頭がぼおっとしている。もう一度眠りにつこうと目を閉じるが、昨夜の事が頭に浮かんでしまって眠れない。明日の朝も早いので無理にでも寝ようと自分に言い聞かせて、何度か寝返りをうったが、だんだん頭が冴えてきた。とりあえず水を飲もうと布団を跳ね上げてベッドから起き上がった。隣の部屋の姉ちゃんを起こさないように足音を立てずにそっと歩くが、フローリングの床がミシミシと音をたててイチイチ気に障る。できるだけゆっくり階段を下りてキッチンに入って、冷蔵庫の中から麦茶の入ったボトルを取り出してグラスに麦茶を入れた。月明かりで意外なほどの明るさで、照明をつけなくても十分なほど明るい。右手にグラス、左手にボトルを握ったまま、グラスの麦茶を飲み干した。

 こんな気持ちじゃ今夜は寝ることができないいだろうなと思った。寝ることをあきらめて夜中に音もたてずすることといえば、僕には料理くらいしかなく、週末に納入するキッシュの生地を仕込み始めた。蛍光灯をつけて、スマホのラジオアプリを立ち上げて、クラシック専門局を選び、ブルートゥースのヘッドホンを取り出してスマホと接続させると、聞き覚えがあるが曲名が全く出てこないワルツが流れ始めた。たしかショパンかヨハン・シュトラウスの曲だが、アプリを見てもタイトルがでてこない。まぁそんなことはどうでもいい。ほどよいワルツのリズムに身を委ねて、機械のように身体を動かして、ひとときでもいいからネガティブな妄想から逃れられたらそれでいいい。Un, deux, trois だ。

 材料を出してすべて計量して無塩バターと卵黄、水以外は薄力粉と混ぜ合わせてボウルにふるった。頭の中でUn, deux, trois とカウントを取りながら、バターをちぎってふるった粉に入れて、指でバターをすりつぶすように粉と混ぜると、徐々にそぼろ状の生地になってゆく。バターを常温に戻して柔らかくしてないのでなかなか上手く混ぜられなかったが、まだ夏の余韻が残る初秋の気温では、思ったより素早く段々ととそぼろ状になってきた。額に流れ始めた汗を手の甲で拭き「よしっ」と独り言をつぶやいてボウルの真ん中をくぼませ、合わせておいた水と卵黄を注ぎ入れて、むらにならないように素早く混ぜる。それからしばらく捏ね続けると、生地が指にまとわりつかなくなって、粉とバターが一体化し始めた。ちょっとボサボサ感があるところでやめて、手のひらで圧をかけるように平らな一塊にまとめあげた。ラップを取りだして、捏ねた生地をラップに包み冷蔵庫に入れて一応作業は終了した。胸につっかえた思いはあんまり変わっていないけど、汗をかきながら無心に生地を捏ねる作業をしたせいか、ちょっとすっきりした気持ちになった。気がつくとラジオアプリでは音楽がチャイコフスキーのピアノ協奏曲に変わっていているが、まだまだ作業を続けたい気分だ。深夜に調理をしているのはパン屋さんくらいだと思うが、誰もが眠っている時間に、誰にも邪魔されずにこっそりと生地を捏ねている姿を想像してみる。そこには誰にも邪魔されない自分だけが奏でるリズムがあり、そのリズムでこの瞬間この空間すべてを自分が動かしている。そう思うと案外楽しそうな仕事なんだろうと思えてくる。ラジオの音だけを道ずれに、深夜遅く北の街に向かってハンドルをきるトラックの長距離ドライバーが、東の空に昇ってくる朝日を見たらどう思うのだろう?綺麗な景色を独り占めしている満足感に浸っているのではないだろうか?深夜と早朝の間に身も知らない人々に思いを寄せながら戸棚の中を手探りでコーヒーのキャニスターを探しだし、赤いホーローのコーヒーポットに水を入れて沸かしはじめた。ペーパーフィルターをドリッパーにセットして一人分のコーヒー豆を入れて、コーヒーカップをテーブルの上に置いた。
 キッチンの窓にはカーテンはなく、こころなしか空が白々と明けてきたようで、月明かりのときよりも明るくなってきた。窓をそおっと半分ほど開くと、ちょっとヒンヤリするくらいの冷たい空気が入ってきて、思わず身震いして秋の気配を実感した。コーヒーポットから白い湯気が上がって、グラグラと沸騰し始めた音がし始めたのでコンロの火を止めてお湯をドリッパーの中のコーヒー豆に注ぐと、香ばしいコーヒーの香りがキッチンを包み始めた。
 もうすぐ夜が明ける。
 



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