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社会を生き抜く「証明力」の極意! ITコンサルタントが学びや仕事を通じて辿り着いた究極のスキルを徹底解説 (第3編 証明力を武器にする)

第2編では、証明力を構成する要素について構造とともに説明してきました。本編では、「証明力」の極意の最終編として、ここまでに説明してきた証明や証明力をより発揮していくためのヒントとして、自分の過去の失敗談を交えて幾つかのコツをお話ししたいと思います。


5. 「相手」と「命題」が実はクセモノ

3つの要素をうまく組み立てて証明力を高めていく上で、もう一つ大事なお話をしたいと思います。
説明が必要な場面で、うまく説明できなかったなと思う時。誰にでもありますよね。
自分も、毎日のように反省しています。

ここで重要なのは、反省する内容です。
ありがちなのは、あの言い方は不味かったかな、とか、細かく説明しすぎたかな、といった、当日のパフォーマンスの反省。でも本当にそうなのでしょうか。何となくモヤモヤしませんか?場数を踏むことはとても大事なことなのですが、前にも同じことを繰り返した記憶があって、成長スピードが遅い気がする。

私自身の話をすると、社会人になったばかりの頃、新卒入社した会社で、「3分間スピーチ」という過酷な習慣がありました。何を話そうか。うまく喋れるかな。と自分なりに考えて、本番に臨むも、シラけ気味で不完全燃焼。前回はなんとなく滑らかに喋れた気がするのに、今回は全然ダメ。なぜか緊張もしたなぁと、反省するにも何が不味かったのか当時はよくわかっておらず、ひたすら場数を踏みながら、プレゼンはやっぱり自分には向いていないんだ、苦手なんだと思い込む日々が続きました。こういう方って、実は潜在的に結構いらっしゃるんじゃないか。

今は自分の中で、ある法則ができています。

私の場合、説明が不調なときは、自分が「相手」を意識した「命題」を正しく認識できていないことがかなりの領域を示すことがわかっています。驚きですよね。今から何かを話す人が、誰に何をしたいのか自分でわかっていない。義務感が満載のやっつけ仕事とはいえ、スピーチをするからには、終わった時に笑ってもらったり、共感を得たり、といった『相手に期待する反応』があるはずなのに。

そもそも、伝えたいイメージを他者に共有することは大変に難しいと思っています。先ほどご紹介した瀬山士郎さんの著書においても、「納得の心理学」というテーマで“イメージをつくり出す力”について、以下のように論じられています。

記号操作が曖昧性を持たず、大勢の人が共有できるものなのに対して、意味の理解は共有しにくい。それはなぜかといえば、数学の意味は具体的ではなく抽象的なイメージに支えられることが多く、イメージとは極めて個人的なものだからです、〜中略〜ということは、私の持つイメージは他の人が持っている次元や空間のイメージとは違っているでしょう。

(瀬山士郎『数学にとって証明とはなにか』講談社)

3分間スピーチに臨む自分の心境といえば:

  • スピーチを聞いている相手の頭の中身までしっかりとイメージすることなく、自分が何を話すのかという話題にばかり意識が向いていて、そのスピーチで何をゴールにするか=命題が明確に描けていない。つまり、スピーチをやり遂げたという証明を得るためのプロセスの最初の命題が不十分。

  • その状態では、論理も、説得も成立していないが、それに自分が気づいていない。

  • 当日のスピーチに挑んで、めがけて喋る先のゴールがないので、いたずらに緊張ばかりが大きくなって、聴衆がどんどん離れているのに気づく。

  • その結果、スピーチをしたという事実は実績としてカウントされるが、うまくできたという自分の誇りと、彼はいいスピーチをするね、という周囲の反応が「証明」として得られない。

元々、人前で喋るのは苦手でした。今後を考えると、絶対に克服しないとまずいよな、と、心のどこかで思ってはいたものの、やはり苦手意識が強く、率先して人前に出ることはせずに逃げ続けていたような「意識低い系」の生き方。終わってみれば、3分間スピーチは無難に問題なく乗り切ったものの、緊張した記憶だけが残っています。とはいえ、30代に突入し、それなりに責任がある仕事をするようになると、人に説明する機会は、嫌でも多くなりました。

そんな中で、私が意識を変えるきっかけとなった出来事が起こります。


その日は、私が新卒入社した会社から転職して所属したコンサル会社において担当した仕事の、第2回目の社内レビューの日でした。当時の私の役職は、日本でいうところの主任クラス。基本的には自分が独力で回すレベルです。仕事内容は、クライアントが別の業者さんと推進中のIT構築プロジェクトを第三者の立場で評価するという、複雑な構造でした。急に入ってきた案件で、とりあえず自分が召集され、所要期間3ヶ月で報告書をまとめて提出するのが主なミッションでした(実際は裏ミッションがあったのですが、機密情報が多いゆえにここでは省きます)。
社内レビューの参加者は、当時の直属のマネージャーと部長、そしてIT系部門から絶大な信頼を得ていた会社顧問の3名に加え、体制上は名前が入っていた同僚が数名の会議設定でした。1週間後にレビューを控え、準備に取り掛かったのですが、1回目の初回レビュー時に不足していたクライアント社内で実行中のプロジェクトの情報を補い、プロジェクトで発生しているいくつかの重要課題を取り上げ分析し、考察まで加えた形で、準備万端でレビューに臨みました。
結果は、惨敗。全く伝わらなかったのでした。

「君が、この場で、我々に何を求めているのかが全く伝わってこない。君はメッセンジャー・ボーイなのか?」と顧問からのコメント。しかも口調はかなり厳しめ。この顧問は、業界のある筋においては相当有名な方だったのですが、とても優しく気さくな方で、普段は有難いことに自分にも声をかけてくれて、フランクに会話できる関係でした。ただこの場においては、その普段の優しさとのギャップと、参加メンバーがそれなりにいる中でガツンと指摘されたことによる、ダブルショックな感覚ですね。

原因は何か。どういうことが起こっていたのでしょうか。
私は、上で述べた通り、1週間前から動いて情報を揃え、課題分析まで実施して、発表の練習(自分が作成した資料をもとに上から流すリハーサル)も済ませていたので、レビュー会議が始まり、冒頭から淡々とその内容を説明していきました。練習の成果もあって、滑らかな口調で話すことができていました。参加者は静かに聞いてくれていましたが、全体的にだんだん間延びしてきた空気を察したので、途中説明は一部省略して、所定の15分程度で説明を終えました。「・・・私の説明は以上です。指摘などありますでしょうか。」と問いかけると、しばらく沈黙したまま。あの時は何時間にも感じましたが、実際は30秒くらいでしょうか。その後に、顧問の口から、先ほどのコメントが発せられたのです。

今になれば、私にも、プロセスにも、間違いが幾つも含まれていることに気づきます。まず、相手を意識した命題が明らかになっていませんでした。そもそも背景として、人様のプロジェクトを第三者の立場で評価するという複雑なプロジェクトが、過去実績もない主任クラスの私に任されています。かつこのレビュー会は、当時の直属のマネージャーが、案件を始める前に、部長から担当は彼(=私)で大丈夫なのか?と聞かれて、“他のプロジェクトも卒なくこなしてくれているし、周りも手厚くフォローするから大丈夫です”と説明した上で成立した案件の流れで、マネージャーが当初設定してくれた会議体だったのでした。

そんな性格の活動なのだから、「彼は内容的に未経験分野も多いから、彼なりに考えて、難しめの質問がたくさん飛んでくるだろう」と参加者は考えていたはずです。でも私のやったことは、クライアントの現場の説明と、クライアントが課題と考えている内容の報告を、社内の上位者に向けて実施してしまったのです。

私が主体的に動く立場なのだから、本来的には、クライアントの現場で起こっていることを踏まえて、報告のスタイルを先読みして自分で作ってみるなり、悩みポイントを一つでも相談すべき時間であるべきであったと今になれば思いますが、単なる進捗報告としか捉えていなかった。わざわざ部長や顧問まで登場する意味を考えてもいませんでした。直属のマネージャーも決して私を放置したわけではなく、一から十まで説明せずに私に任せることを実践されていたと、マネージャー本人から後で聞きましたが、側から見れば特に悩んでいる様子もなさそうならば、順調なのだろうと思いますよね。自らの仕事と捉えて、何を証明する必要があるのかという命題すら意識がいかなかったということは、私自身の仕事のスタンスが、「やらされ感」が満載だったのだろうと思いますが、そういう危機感みたいなものを感じさせるオーラが自分からバンバン出ていたのでしょう。その危なっかしさに、今では寒気がしますが、そんな心理状態の中での準備であれば、顧問からもあのようなコメントをいただくことになりますよね。本当にありがたい話です。


さて、上記のエピソードから、ややもすると昭和の香りが漂う、ちょっとしたスパルタな世界観を感じられる方も一部にいらっしゃるかもしれませんが、私自身がハラスメントを受けた意識は全くないこと、そして15年くらい前の話であることを申し添えておきます。

今なら、同じ会議に臨む前に、私はこのような設定をします。数学などの学問の世界でない限り、命題の置き方は多様ですので、絶対にこれという正解はありません。その時その時のシチュエーションで命題と証明の頭になって、考えてみることが重要なのです。

命題:
このプロジェクトを第三者評価するという複雑な活動は、私が独力で考えただけでは最終アウトプット(=報告書)に求められる品質に及ばない。ゆえに今この場で議論すべきことは、皆様の知識・経験をもとにアドバイスを受けて報告の品質を高めることである。

論理:
「複雑」であることを解きほぐす。

  • クライアントが作ろうとしているITシステムが対象にするビジネスの複雑性

  • 新しいシステムを構築する技術的手法が妥当かを判断するポイントの複雑性

  • クライアントとIT専門業者が組成する実行組織の役割分担の複雑性

  • 第三者として外の人間がプロジェクトの現場とプロジェクトオーナー(執行役員)の間に入り、クライアント・IT専門家・経営者の各想いを踏まえて評価する活動の複雑性

説得:
上記の論理を納得してもらうために、それぞれの複雑性の観点を図解して説明する。その際に、わかっている場所はここまでで、わかっていない場所はここから先、と明示することで、自分の理解度とともに、今後の悩みポイントを明確に自分の言葉で伝える。

「君が、この場で、我々に何を求めているのかが全く伝わってこない。」この指摘は非常に的確で、今でも、説明を人にする際には、必ず何度も頭や心で繰り返し繰り返し、反芻(はんすう)する言葉です。

この指摘のショックから立ち直るまでに若干の時間を要しましたが、その後は私自身が意識を変えることができ、活動をリードすることができました。報告書は何十回もダメ出しをくらってやり直しましたが、検討自体は盛り上がり、皆が意見を出し合い、学び多く、チームとして素晴らしい成果を出すことができました。後になって考えてみると、このプロジェクトの経験が、私にとって一人前となって活躍する本質的な基礎となっている実感があります。これがなければおそらく今、私は現在の位置にいないでしょう。独立も果たしていないでしょう。何年間も無駄にしていたでしょう。こう考えると、あの経験の始まりとなる指摘をくださった顧問には、本当に感謝しています。私には「師匠」が3人いるのですが、この顧問は僭越ながら3人のうちのお一人と設定させていただいています。

こういう話は、どんな場でも起こり得ることであると思います。仕事でなくとも学生生活や私生活においても同様です。話が食い違う、なんとなく空気が変だ、一体感がない、いくら言っても伝わらない、といった場合は命題に立ち返ることが必要であること考えています。
全体を通じて言えることは、説得=プレゼンを「うまく」やる必要はない、ということであり、そもそも何が命題で、何を証明したいのか。これが明確であればあるほど、自ずと、言葉は出てくると私は思っています。

特に、人前に出て喋らないといけないが、あがり症や喋りのスキルが低いと悩んでいらっしゃる方は、一度、「命題」と「証明」を意識して「論理」を考えていただくと、成長の兆しがあるかもしれません(実際に私がそうでした)。

なお、命題の置き方や証明のスキルに関する、よりテクニカルな内容は、後日記事をアップする予定です。

6. 「証明力」がある人とは

相手が自分をよく知っている間柄であればあるほど、証明力が上がります。その一方で、説得材料を減らせます。その市場における認知度はとても有利に働きます。上記のテレビショッピングの例では、良い商品を安く売っているイメージがそもそも視聴者にあるので、例えばいちいち、商品紹介をしている自分たちがいかに信用できる会社か、過去にどれだけの商品を売ってきたか、まで説明ロジックに組み込む必要がなく、商品紹介に没頭すれば良い。3分間スピーチの例であれば、新入社員よりも影響力が全く違う部長が話す場合を想像してみましょう。ツベコベ言わずに「こう決めました。私がそう思ったので。質問があればきてください。」と言うだけで、その組織に対しては非常に説得力がある、ということです。

続きは『Columns』にしておきましたので、ご興味があればご一読ください。

Columns

ちょっと視点を変えて。自分が画家だった場合を想像してみましょう。画家は、自分が伝えたいことを何で表現するのでしょうか。世の侘び寂びかもしれないし、人間の奥深い情念のような感情かもしれない。それは画家によって違うでしょう。でも、手段は皆同じく「絵」になると思います。絵の中に、自分が伝えたいメッセージを込めて、作品にする。素晴らしい絵を見た人は、その作品に感情を動かされる。伝えたいことが本当に見た人に伝わっているのかわかりませんが、その世界にはロジックや説得という領域が存在しないのですね。芸術の腕を磨いて、自分が伝えたいことを100%作品に表現して、精神や心の領域で、相手に理解してもらう世界。これが成立する人は一握りかと思いますが、この域に達している人は、私自身、非常に羨ましいです。スポーツ選手の場合はどうでしょうか。プロのスポーツ競技は、観戦する人がいる前提で、成立する世界です。チーム競技であれば、そのチームの勝敗を楽しみにする人もいるでしょう。ファンの選手が活躍して、心が動かされることで、勇気や活力を得る人もいるでしょう。人気があるスポーツは、そこにお金が発生するのでビジネスが成立します。スポーツ選手自身は、その構造は十分に心得ているので、自分が鍛錬して身につけた技量をもって演技する、または相手と競技して求められた結果を出すことで報酬を得るわけです。これも芸術家と同様に、論理や説得を頭で作り込む必要はなく、とにかく活躍して結果を出すことにこだわれば、観戦する相手に、敗北からくる挫折や、それを克服する裏の努力が垣間見え、感動として勝手に伝わっていく世界がある。そのスポーツの腕を磨くことに全力を注ぐことになる。一般的にアスリートが現役で活躍できる時間は、他の仕事と比較して短いですが、これで生計を立てられる人も、本当に尊敬します。

おわりに

最後に伝えておきたいことは、自己レビューの重要性です。
客観的にご自身自分が作り上げた命題・論理・説得が成立しているか、確認してみましょう。

冒頭に紹介した私なりの証明の定義を再びここに書きます。

「相手にとって正しいかどうかがわからないお題を、数々の証拠や、世間一般で正しいとされる考え方・常識を踏まえてロジカルに説明することで、相手に正しいと思ってもらうこと」

その文章の「相手」を「自分」に置き換えて、文章を調整してみます。

「自分が正しく伝えたいお題を、数々の証拠や、世間一般で正しいとされる考え方・常識を踏まえてロジカルに説明することで、自分自身が最初に正しいと思えること」

実は、これを何度も何度も繰り返す工程が、「準備」にあたると私は思います。
この準備の工程がとても大事で、世に対して何らかの証明をする場合に、成功するか、失敗するかがかかっています。準備が大事とはいえ、ダラダラと準備期間をかけることを勧めているのではなく、その質が重要。「こうである、こうでありたい」という思いをどんどん深めていって、では何をすれば良いかという、『〇〇は〇〇である』と言い切れる命題を、正しく、強く心に決め、頭に刻み込む。
その後、どれだけその準備に、自分の血と汗を込めて、説得力を持たせられるのか。
証明の場に立つ前に、相手の立場に立って、必ず確認されることをおススメします。

1回では語りつくせない内容であり、同時に私自身がじっくりと時間と労力をかけてお伝えしていきたいと考えている内容ですので、恐らく詳細な内容は続編や番外編の記事を繰り返し書かせていただくことになろうと思っています。


ここまで、ALT+編集部として初めて、いま学生や社会人の皆様に伝えたかった「証明力」について、記事を公開させていただきました。
最後までご覧になってくださった読者の方々、ありがとうございました。

今後も積極的に様々な気づきを発信していきたいと思っています。
これからも、ALT+編集部をよろしくお願いいたします!