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警察官の心の支援はなぜ必要か②

二 警察官特有の問題を多角的に知る

『警察官には心の支援が必要である。そして、それは東日本大震災のような大きな災害に関わった後だけでなく日常で生じる心の傷みに対しても行われるべきである。』というのが私の信念である。

 警察官の日常生活からくるストレスの蓄積によって起きる様々な問題を、メンタルヘルスの先進国である米国での視察を通して「我が国でも常日頃から警察官の心の支援の習慣をつけるべきである」と世に問いかけたのは、私の知る限り橋本裕藏先生 が警察政策(警察政策学会機関誌) に寄稿されたものが最初であり、続くものは未だ現れていない。

橋本裕藏(ハシモトユウゾウ) 刑事法が専門の法学者。メンタルヘルス先進国である米国での調査を経て「平時から警察官の心の支援を行うこと」の重要性を提唱し、治安維持者の心の健康を保つことによってこそ地域の安全が保たれるという基本理念の下に発足された『警察官の心の支援研究会』の主宰者。「警察官の心の支援の仕組みを構築する」ということを目的にした研究分野においては我が国のパイオニア的存在である。

橋本裕藏. 〈海外調査報告〉警察官の心の支援―基礎研究と米国調査旅行中間報告―. 警察政策. 2012年, 第14巻, p.105-148. /警察官その他の法執行官とその家族の心の支援―新規採用時教育の意義と今後の課題及び若干の考察(米国調査旅行最終報告に代えて)―. 警察政策. 2013年,第15巻, p.292-319.

私の信念がこの調査報告によって構築されたのは言うまでもない。ここでは3冊の書籍が紹介されている。いずれも法執行官とその家族のメンタルヘルスについての理解を深めることができる名著であると感じているが、中でも強く影響を受けたのは調査報告の後半部に紹介されている I Love a Cop: What police families need to know、by Ellen Kirschman Ph.D である。

Emotional survival for law enforcement : A guide for officers and their families, by Kevin M Gilmartin, Ph.D.

Cops Don’t Cry : A book of help and hope for police families, by Vali Stone

I Love a Cop : What police families need to know、by Ellen Kirschman Ph.D

Ellen Kirschman (エレンカーシュマン)治安維持者たちとその家族を支援している臨床精神分析医であり、コンサルタントでもある。講演やセミナーリーダーとしても人気が高く、警察官、消防士、ファーストレスポンダーのための著書が多数ある。さらにFBIアカデミーに講師として招かれ国際警察署長協会の心理学的業務部門のメンバーでもある。近年ではミステリー作家として活躍する傍ら、反警察感情やCovid-19に苦しめられている警察官とその家族のサポートに取り組んでいる。

本書には警察官の家族になるというのはどういうことか、警察文化はどういうものか、警察官の家族ができることはなにかなど、警察家庭で起こり得る問題の対処法を交え、警察官とその家族がよりよい家庭を築く秘訣が示されている。『警察官家庭の医学』として警察家庭で悩みがある誰もが手に取り解決策を見つけることができると感じられるお薦めの一冊である。本稿ではその一部を紹介し、警察官とその家族が日常的に心の支援を受けることができる環境の整備が必要であることの理解へと繋げたい。

ここで、元警察官Aと私のエピソードを紹介しておきたい。Aとの付き合いは、私が事件の情報提供及び通訳をしたことから始まり、Aが退官した現在も含めると20余年にもなる。Aが現職の間私は数々の情報を提供し、そのうちのいくつかは犯人の検挙に結びつくものになったと聞いた。Aは名物刑事といわれる人物に多い『お節介』で『粘り強く人の心を開くのが得意』なタイプで、情報提供以外でも嫌な顔ひとつ見せずに話を聴いてくれる。度々電話をかけ時事問題を議論したり、仕事の愚痴を打ち明けたりし、私の中では信頼関係で結ばれた友人の一人だった。

数年前のある日、私は近隣トラブルに悩まされている友人Bと一緒にいた。Bの子供は小学校入学を目前に、軽度のADHD(注意欠陥多動性障害)と診断され、”音に過敏である”、”衝動的な行動が多い”など日常生活に影響を及ぼす症状が顕著だった。加えてBの一番の悩みは、”雨戸の開閉音をわざと響かせる”、”車を空吹かしして急発進させる”、”大声をだして近づいて来る相手を威嚇する”などの異常な行動を見せる向こう隣の住人で、特に多動で目を離すことができない特性を持つ自分の子供が危害を加えられることを恐れたBは神経質になっていた。思い余ったBは最寄りの交番にパトロールを願い出ようと考え、”取り乱してはいけない”と私に立ち会いを願い出た。パトカーの赤色灯や制服警察官を多くの人の目に留まるようにすることは犯罪の抑止になるといわれているが、これらは地域住民に対してもまた安心感を与えつつも法と秩序をもたらすものであり、「制服警察官のパトロールを増やしてほしい」という地域住民からの要望も少なくはない 。

財団法人社会安全研究財団. “パトロール活動・110番通報等に関する世論調査”. 2007年3月, https://www.syaannken.or.jp/ , (参照2022年5月28日)

Bも多くの地域住民同様、パトロールを依頼することで安心感を得たいと思っているようだった。私は最寄りの交番に電話をかけるBに付き添い、その様子を眺めた。Bから交番の電話に対応した相手(後に警察官であることが判明する)に伝えられたことの要約は、*向こう隣に情緒不安定な住人がいること*その住人の奇行が目立つこと*自分の家にはADHDと診断された子供がいること*子供の安全を考えてパトロールを希望していることである。*何に困っているのか、*なぜ困っているのか、*解決に向けて、警察にしてもらいたいことは何か、友人であることを差し引いて考えても、Bは感情的になることなく冷静に、うまく要点を押さえた説明ができていた。ところが電話に対応した警官の返答は不親切で、“我々警察官も忙しい、近隣トラブルなど一日に何十件と相談があるものに一々対応していられない。パトロールなど無理だ。”というものだった。警察への近隣トラブルの相談が多い事を聞いたBはやや不満そうだったが、仕方ないといった感じで電話を切った。その一部始終を目の当たりにした私は、警察官が多忙で近隣トラブルの相談やパトロールの要望が多いことに一定の理解は示すが、もう少し親切な言い方はないのだろうか?せめて一度だけでもB宅付近のパトロールで状況を確認し、パトロールカード(交番の警察官が地域の安全確認のためパトロールをし、住民に防犯上の注意や巡回報告を行うもの)を作成し、B宅のポストに投函することはできないのだろうか?と交番の警官の対応を不快に感じた。その晩、私はモヤモヤした気持ちを抱えたまま、当時現職の警官だったAの携帯電話を鳴らした。Bの電話を受けた警官のことを”告げ口してやろう”とか”Aに泣きついて口添えしてもらおう”などという下心があったわけではなく、友人や家族に話すような感覚でBと交番の警官のやりとりから感じた自分の不服をAに話し始めた。私はAに警官としてではなく、ただ気心知れた友人として共感してほしかったのだ。いつもと違うAの様子に気が付いたのは話し始めてすぐのことだった。普段から聴き上手なAは、どのような話題でもまずは相手が話し終わるまで黙って聴く。ところが私の話が”交番の電話対応の件”にさしかかった時、Aが私の話を遮るように”交番の人手不足”について説明を始めたのだ。当時Aは課長級、多くの部下を持つ指揮官という立場にあったのだが、件の交番の警官はAの直属の部下ではない。過去にもAと交番の警官に接点はなく、共通点は警察官であることのみである。それなのに、あろうことか電話越しのAは”近隣トラブルの相談件数”や”交番業務の問題点”について実数を挙げ、実例を示しながら理解を得ようと私を説得し始めたのだ。

ここで私が強く主張したいのは、交番の電話対応のことではない。Aに強く説得されたことでもない。10年以上に渡って信頼関係を築いてきたと信じていたAが『警察官であるという共通点だけで結ばれた、一度も顔を合わせたことのない誰か』のために私を納得させようとしたという事実である。

Aとの信頼関係ができていると信じて疑わなかった私はこの出来事を悔しいと感じ、いつもと違うAの反応に戸惑っていた。その一方で、この事実を冷静に受け止めることができたのは前述のI Love a Cop に接していたからに他ならない。Kirschman博士は『“警察官であるという共通点だけで結ばれた、一度も顔を合わせたことのない誰か”に心を寄せたAの謎』を本書の中で以下のように解き明かしている。

過保護タイプの警察官は、悩みや心配事を断ち切ることができないという相反する問題を抱えている。このような人々は、他人と距離を置き自分以外の警察官とだけ関わるというある種の“視野狭窄”を発達させてしまっているのだ。そのため、彼らは世の中に対する現実の認識が限定されている。彼らは”自分の業界こそがあまねく社会の鏡である”と信じるようになるのである。もしあなたが、違った視点を提案しようものなら「あなたは警察官ではない、したがって何を言っているのかわからない」と言われてしまうかもしれない。

 I Love a Cop: Chapter2 “Cynicism and Overprotectiveness” 34p


おそらく、警察業務について警官ではない私に異なる視点から指摘されたAは、自分以外の”警察官という職業だけで結ばれた見知らぬ誰か”と関わる傾向を強め、『視野狭窄』を発達させた。その結果、警察官でない私はAに「何を言っているのかわからない」という印象を与えてしまったのだろう。別居の他人である私でさえ警察官との信頼関係について深く考えさせられたものである。パートナーや子供たちといった同居の親族はどのような気持ちになるだろうか。自宅で安易に“今日の出来事”について話すことが躊躇われることになりはしないだろうか。特に、地域住民と接する機会が多い「お巡りさん」を話題にするのは要注意だ。警察官という職業を選んだ家族の一員が、何年もかけて育まれた家族としての信頼関係よりも、警察官という職業だけで強く結ばれた見知らぬ誰かとの信頼関係を優先させてしまうのを目の当たりにし、疎外感を抱き孤独に苛まれるかもしれない。

警察官というのは“人間の悪い部分”に長時間晒されているものである。穏やかな日常を過ごしているときに警察官を必要とすることはない。何も悪いことをしていないと自覚していても、パトカーを見たり警察官とすれ違うときには誰もが緊張するものである。職務質問を過度に警戒したり、少々の嘘を交えて質問に答えたりする人もいるかもしれない。軽微な犯罪から致命的な犯罪まで、彼ら警察官が関わるのは人間が悪い部分を見せるときだ 。Kirschman博士は『冷笑主義と過保護』と見出しをつけて、人間の悪い部分に長時間晒され続けている警察官が家族との関係を拗らせるメカニズムの一部を以下のように説明している。

警察官の中には、自宅を聖域にしたくてたまらないために自宅と職場の切り替えをせずに壁を作ってしまう人もいる。彼らは過保護になり、留守中の自分の生活について話すことはほとんどない。家族の安全に対する恐怖や不安があまりにも極端なため、家族の活動を過剰に制限し、家族が世間一般的な普通の行動範囲を持つことや、どのような友人を持ちどのような活動をするのかを自分で選択することを許さない場合もある。

I Love a Cop: Chapter2 “Cynicism and Overprotectiveness” 33p


警察の仕事は『感情労働』である。感情労働を端的にいえば『感情のコントロールが必要不可欠な要素である仕事』のことだ。彼ら警察官は、その存在を以って危機を安定させなければならない。例えば、人の死を前に取り乱して泣き崩れる警察官を見た地域住民はどう感じるだろうか。刃物を持って暴れている人を相手に怯え、感情をあらわにしている警察官を頼りにしたいと感じるだろうか。警察官には、感情に左右されることなく淡々と職務を遂行することが求められている。そのため、彼らは無意識に自分の情緒をコントロールする術を身につけ、自分の心の安全を守るようになる。ところが彼らは、自分の心を守ろうと情緒をコントロールすることによって、前述のような“冷笑主義者”や“過保護タイプ”の人間となり、家族や恋人、友人といった身近な人々の活動を異常に制限したり、身近な人々と距離を置いてしまうという副作用を生じさせることになる。この副作用の特徴は、警察官だけでなく“身近な人々に大きな影響を与えている”というところにある。警察の仕事が警察官のプライベートに浸透し、その人間関係にまで影響を及ぼしているということだ。特に家庭生活への影響は計り知れない。こういった警察官特有の問題を誘発する『警察文化』は、警察官が警察組織以外の誰かと関わろうとするとき顕著である。

本稿では『冷笑主義と過保護』にフォーカスしているが、これらは警察文化の一部でしかない。Kirschman博士は警察文化の特徴を『警察官のパラドックス』として*感情のコントロール*冷笑主義と過保護*指揮命令系統による束縛(権威主義)*過剰警戒の4つに分類している が、我が国でも警察文化についての調査研究が行われ、冷笑主義や権威主義といった米国と同様の特徴が挙げられている 。

 吉田如子. 日本における警察官職業文化―調査票調査によってー. 法社会学, 2010年, 第72号, p.250-283.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsl/2010/72/2010_250/_pdf/-char/ja

警察制度の異なる2つの国で、同様の警察文化が認められるというのは注視すべきことであり、警察文化が国家(Nation)で括られたものではなく、職業(Profession )で括られたものであると考えてもよいのではないだろうか。無論、警察文化のほとんどは警察官特有の問題が複数組み合わさって複雑化しているものだ。

警察官がストレスを自覚し、それと向き合い、策を講じることによって非違事案や不祥事、自死のリスクを最小限に抑えることが可能である。そのためには警察官特有の問題を多角的に知り、複雑に組み合わさったリスク要因を見つけ出し、警察官の真のストレスを理解することが必要である。

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