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警察官の心の支援はなぜ必要か③

三 警察組織と警察官個人それぞれの思惑

警察組織は総勢29万6194名 の巨大企業である。巨大企業が「大企業病」を患っていることは珍しいことではない。*前例や形式を重視する保守的な思考、*非効率、*旧態依然のことなかれ主義で変化を嫌う、*社内政治や派閥が蔓延するなどの特徴を持つ「大企業病」は、そこで働く人々にストレスを与える要因となっている。組織としての警察もまた例外ではない。

 一方で、警察官が『ストレスを感じるとき』というのは実に様々である。「どのようなときにストレスを感じるか」という簡単な聴き取り調査の結果、*仕事で子供との約束が守れなかったとき、*部下からの報告の遅れによって仕事がスムーズに運ばなかったとき、*上官から書類の書き直しを繰り返し命じられ一日を費やしたとき、*同僚が上官から叱責されているのを聞いているとき、*上官から無視され仕事が進まない状況に置かれたとき、などの回答を得た。いずれの回答からも「組織の一部である自分と一個人である自分の感情の板挟みになったとき」に強いストレスを感じることが読みとれる。前掲“I Love a Cop”の著者Kirschman 博士は、警察組織と警察官個人の関係性について以下のように記している。

警官は、敵対する外部の人間に対して所属する機関が自分たちの側に立ち、サポートしてくれることを期待している。彼らは、警察組織が公平で思いやりのある両親と人生の恩恵と不幸を公平に分かち合う協力的な兄弟姉妹からなる代理家族として機能すると信じたいのだ。

 I Love a Cop: Chapter4 “Organizational Dilemmas” 69p


『組織が守ってくれる』という言葉を警察官から耳にすることがよくある。警察官個人には“代理家族の一員として組織に守られている”という自覚があるようだ。同時に、警察官は常に“起こり得る懲戒処分”を警戒している。組織の一員としてその恩恵を受けながら、同じ組織からの懲戒処分を警戒しなければならないというのは皮肉なことである。こういった矛盾を抱えたまま、長期に渡り警戒を続けることはストレスを長引かせ、蓄積されたストレスは警察官を疲弊させることにつながる。懸念していた懲戒処分が現実のものとなれば、そのストレスは当事者だけでなく家族をも深く傷つけることになる。更に悪いことに、組織に守られていると信じていた警察官は、組織が敵になったように感じ、家族の誰かに裏切られたような失望感を味わうことになるだろう。私はこの失望感こそが不祥事のリスク要因になっていると感じている。
ここから、組織と警察官個人の思惑がずれてしまった場合どのようなかたちで不祥事案へと発展していくのかについて考えていきたい。


2016年6月『日本で一番悪い奴ら』という映画が公開された。日本警察史上最大の不祥事案といわれた『稲葉事件 』を題材にしたこの作品は、第15回ニューヨーク・アジア映画祭のオープニングに選出され『Twisted Justice』というタイトルがつけられていた。

稲葉事件:2002年7月北海道警察の警部”稲葉圭昭“が覚せい剤取締法違反及び銃砲刀剣類所持等取締法違反容疑で逮捕され、2003年4月有罪判決を受けた事件である。稲葉氏は9年の刑期満了後、この事件を自身の立場から綴り『恥さらし(北海道警 悪徳刑事の告白)』として上梓している。

なるほど、『歪んだ正義』とは言い得て妙である。“拳銃を世の中から減らせば地域の安全に繋がる”という警察組織の崇高な正義は、現場に近づくにつれてその真意が歪んで伝わり、この伝言ゲームの最後は“拳銃を集めてさえくればいい”と伝わってしまったようだ。ではなぜ現場には、“拳銃による犯罪を未然に防ぐ”と伝わらずに“拳銃を集めてさえくればいい”と伝わってしまったのか。これには警察文化の一つとされる『指揮命令系統の連鎖』が深く関わっていると感じている。警察組織は階級によって構成された準軍組織であり“上官の命令にただ従うこと”、“何も考えない、議論しない”ということが組織をうまく機能させる不可欠な要素であるために下位階級になればなるほど命令を素直に受け入れる、つまり命令の真意については考えないということになる。“歪んだ正義”の正体は『指揮命令系統の束縛』である。
 Webのインタビュー記事で件の稲葉氏が以下のような趣旨の話をしているのを見た記憶がある(随分前のことで記録しなかったため、ここで紹介できないのが残念だが)『“川で溺れている子どもを偶然見かけたとき警察官としてどうするか?”と上官に尋ねられた自分は即座に“子どもを助けるために川に飛び込む”と答え、上官にそれが警察官としての正解だと褒められた』このことから、稲葉氏は『指揮命令系統』の観点から非常に警察官として優れ、組織からよく教育されていることが読み取れる。
 稲葉事件の始まりは『地域の安全を維持するために拳銃を集めてこい』という命からだった。組織の一員として稲葉氏は「地域の安全のため」と信じてそれに従って拳銃を集めた。やがてその命は『拳銃を集めてさえくればいい』と歪められ、それでも組織人として上官に従った稲葉氏は華々しい業績を挙げ階級を上げた。聴き取り調査の中で当時の状況について、稲葉氏はこう振り返った。『ヤクザとはガッツリ癒着していましたからね、それは当たり前のことと。それができない、やらない刑事さんたちは刑事部屋でデスクワークをしていました。仕事もないのにデスクワークとは、不思議じゃないですか。彼らは終日いったい何をやっていたのでしょうね。ヤクザ担当の刑事が朝来て夕方に帰るなんて、おかしくないですか。』

 当時は稲葉氏のようにS(情報提供者)との人間関係を構築し、取引をして組織に貢献するという捜査手法が使われることは珍しいことではなかったようだが、現在では組織の思惑の変遷によってこのような捜査手法を使う捜査員はほとんどいない。最近では2013年9月に愛知県警察の警部が暴力団関係者に情報を漏らしたとして逮捕されているが、逮捕された警部もまた稲葉氏と同様の捜査手法を使っていたと思われる。しかしながら、この捜査手法は組織の思惑と警察官の思惑が一致しているときには非常に有効であるが、そうでなくなった場合に関わった警察官は一瞬にして組織内での立場を失うことになる。昇任が決まり、周囲の人間が変わり、組織における自分の立ち位置が揺らぎ始め、S(情報提供者)との関係が崩れ、組織から梯子を外されてゆく様を、稲葉氏は以下のように綴っている。

これまでの実績がすべて否定され、仕事から干されてしまったのです。このときの悔しさは筆舌に尽くしがたいものがあります。私は警察組織の要求に応えるために、大量の拳銃を押収してきました。その警察官人生が、根底からひっくり返されてしまったのです。

稲葉圭昭. 恥さらし(北海道警 悪徳刑事の告白). 講談社文庫. Kindle版, 位置No.2086
講談社. 2016年2月

 それでも、なんとか組織内での立場を取り戻そうと試みたが組織から救いの手が差し伸べられることはなかった様を以下のように続けた。

屈辱でした。それまで私は上司の望むように仕事をして、成績を上げてきたという自負があります。上司の命令には逆らわず、拳銃捜査ではどんなに危ない橋でも渡りました。それなのに組織ぐるみで運用したエスが起こした不祥事の責任をすべて私に押し付けて、冷や飯を食わせる。これまでの警察人生がすべて否定されたように感じ、空しさがこみ上げました。

稲葉圭昭. 恥さらし(北海道警 悪徳刑事の告白). 講談社文庫. Kindle版, 位置No.2092,2098
講談社. 2016年2月

こうして失望感を味わった稲葉氏は、覚醒剤に手を出してしまう。残念なことに警察官の周りには犯罪に関する知識と物が多く、不祥事へと繋がる道がいくつも準備されているのが現実である。このことについて、Kirschman 博士は“警察官の家族が知っておくべきこと”として、組織内でのストレスの影響から情緒に問題が生じる可能性について言及し、「慰めようのない状態になる」としている。

家族が理解し知っておくべき重要なことは、組織内で感じるストレスというのは警官に影響を与え、街頭の泥棒たちよりも彼らを深く傷つけ動揺させるということです。このような経験をした警官は眠れなくなっているかもしれません。彼らは犯罪者のように感じたり、被害者のように感じたり、無力で手に負えないと感じていると打ち明けるかもしれません。彼らは、悪人たちや難癖をつける対象となる人々を探し求めていくようになるでしょう。復讐を企てたり、単に一時休業したり、頼まれた仕事を拒否しようとするかもしれません。態度に表すかもしれません。彼らはおそらく、一度は慰めようのない状態になることでしょう。

 I Love a Cop: Chapter4 “Organizational Dilemmas” 69p

本来なら、この段階までにメンタルヘルス専門家の介入が必要となる。また、稲葉氏のように組織と一蓮托生となって業績を伸ばしてきた警察官の場合、特に組織外のメンタルヘルス専門家の介入と法律や条例による警察官の保護が必要となる。実際、米国では(州によって違いはあるものの)警察官がカウンセリングなどの治療を受けるためのハードルは低く、警察組織もカウンセリングを受けることを推奨している。組織の中から特別に訓練されたカウンセリング技能者を出向させ、組織外での活動に参加させることを積極的に行っているケースもあるようだ。『カウンセリングを受ける警察官に不利益を生じさせない』といったところは法律や条例によって守られるよう工夫されている。
 不祥事の形は様々であり、責任の所在もまた様々であるがそれについて議論するのは「警察官の心の安全」を確保した後でよいのではないかと思っている。

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