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《大学入学共通テスト倫理》のためのマルティン・ハイデッガー

倫理科目のために哲学者を一人ずつ簡単にまとめています。マルティン・ハイデッガー(1889~1976)。キーワード:「現存在(ダーザイン)」「世界―内―存在」「手もと的」「ダス・マン(ひと)」「被投性」主著『存在と時間』『形而上学とは何か』『ヒューマニズムについて』『放下』

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ハイデガーの肖像は、パブリック・ドメインのものがなく掲載しません。そんな現代の人物です。がっしりとした体格で、鼻の下にヒゲを生やしたドイツ紳士です。

📝ハイデッガーは最強の哲学者と評判高い人物です!

20世紀大陸哲学の潮流における最も重要な哲学者の一人とされる(フリー百科事典「ウィキペディア」、マルティン・ハイデッガーのページから引用)

近現代のフランスやドイツのキレキレな哲学者たちの中で、最重要扱いです。これはすごい!

📝その主著『存在と時間』ですごさを確かめましょう!

◎まず、議論の範囲がすごく広いです

存在と存在構造は、あらゆる存在者と、存在者にぞくする、存在するものとして規定されたいっさいの可能なありかたを超えている。(ハイデガー『存在と時間(一)』(熊野純彦訳、岩波文庫)から引用)

ハイデッガーは、私たちが普通に存在すると思うものを「存在者」と呼び、それを成立させるナニカを「存在」と呼んで分別します。とんでもないナニカを思考の射程に収めている一節です。

世界の「もとで存在すること」は(略)現前する事物が〈いっしょに目のまえに存在している〉といったことを、だんじて意味していない。「現存在」という名の存在者が、「世界」という名のもうひとつの存在者と「たがいに並びあっている」といったことはありえない。(ハイデガー『存在と時間(一)』(熊野純彦訳、岩波文庫)から引用)

これがハイデッガーの「現存在」&「世界―内―存在」。超越的なナニカの「存在」の思考のために、ハイデッガーは「現存在(現実に存在していると感じられる私たち)」の分析を進めます。その特徴がこれ。「私は世界の中にいる」という知覚が存在条件であることで、「現存在」=「世界―内―存在」です。「―(ダッシュ)」がついているのは、区切れていると見せてくっついている的な味な造語です。こんな風に、存在条件を厳密に吟味しています。

道具全体のなかで道具は(略)当の道具でありうる。(略)個々の道具に先だって、そのつどすでに一箇の道具全体性が覆いをとって発見されているのである。(ハイデガー『存在と時間(一)』(熊野純彦訳、岩波文庫)から引用、ただし「ひとつの」と「先だって」の傍点を省略している。)

これがハイデッガーの「道具存在」&「手もと的」&「気づかい」。ひとがじっさいの道具や道具的に使用できるものとの関わることで、世界の中での存在のし方が生まれていると論じています。ハイデッガーはそんな道具と私たちの関係を「手もと的」と呼び、それとの関わりを「気づかい」と呼びます。引用はまた、一つの「手もと的」な道具を気づかうことが全ての道具とつながり、世界という大きさが得られると述べています。人間の考察が、結構具体的です。

◎次に、「現存在」の分析の残念な展開が興味深いです!

他者たちこそが、日常的に互いに共に存在することにあって、さしあたりたいていは「現存在する」ものなのである。〈だれ〉とは、この者でもあの者でもなく、ひと自身でもなく、さらには幾人かの者でもなく、すべての者の総和でもない。「だれ」は中性的なものであり、つまりは〈ひと〉である。(ハイデガー『存在と時間(二)』(熊野純彦訳、岩波文庫)から引用、ただし、「現存在する」と「ひと」の傍点を省略している。)

これがハイデッガーの「ダス・マン(ひと)」。私たちである「現存在」の存在条件の中には「ひと」である協働存在という認識が根底的にセットされていると主張しています。引用は、それが全然具体的でないのにしっかりあることを言っています。確かに、そうかもしれない。

〈ひと〉とはだれでもない者であり、たがいのもとに在ることですべての現存在は、そのつどつねにこのだれでもない者へと引きわたされてしまっている。(略)固有の自己という意味での「私」が「存在している」のではない。(ハイデガー『存在と時間(二)』(熊野純彦訳、岩波文庫)から引用、ただし、「だれでもない者」の傍点を省略している。)

私たちが「ひと」である以上、個性どころか個もない「ひと」でしかないという扱いです。何だか残念なムードの話です。

頽落という標題は、まったく否定的な評価を表現してはいない。(略)現存在は、本来的な〈自己で在りうること〉としてのじぶん自身からさしあたりつねに滑りおちており、「世界」へと頽落しているのである。(ハイデガー『存在と時間(二)』(熊野純彦訳、岩波文庫)から引用)

固有の自己を成立させる条件は「在りうる」という可能性の中にあること。そして「さしあたり」私たちがそれを現実化しないで生きているということを述べています。「頽落(たいらく)」とはくずれ落ちるという意味。残念なムードはより強まっています。

◎しかし「現存在」はシリアスな状況と「固有さ」とに出会います!

代理可能性は(略)座礁してしまう。(略)死は、それが「存在する」かぎりその本質からいってそのつど私のものなのである。(ハイデガー『存在と時間(三)』(熊野純彦訳、岩波文庫)から引用)

ただの「ひと」の現存在は、死と向かい合い「私」という固有さに関わっていくという話です。

〈ひと〉によって、もっとも固有な死へかかわる存在をみずから覆いかくす権利が与えられ、その誘惑もまた深まるのだ。(ハイデガー『存在と時間(三)』(熊野純彦訳、岩波文庫)から引用)

その一方、死を前にした人間は、「ひと」の中にこもろうとします。

決意性が、じぶんがそれでありうるものへと本来的に生成するのは、おわりへと理解しながらかかわる存在としてである。(ハイデガー『存在と時間(三)』(熊野純彦訳、岩波文庫)から引用、ただし、「おわりへと~存在として」までの傍点を省略している。)

死へと開いた自分であることの決意において、「固有の自己」が登場するという話です。

自己によって、決意した実存の沈黙が露呈される。そうした自己こそが、「自我」の存在への問いに対する根源的な現象的地盤である。(ハイデガー『存在と時間(三)』(熊野純彦訳、岩波文庫)から引用)

言葉による「論証」ではなく、沈黙の中にある決意で「自我」の地盤が生まれると言われます。つまり、ある種の「悟り」に近い知覚の状態で私たちが「私」になる話だと言えます。世界の中で人は「被投的(投げ出されている)」である。そのどうしようもなさを「気分」として感じつつ、ある決意を世界に「投企(投げかけていく)」する。こんな決意が「私とは何か」という問い、その問いを成立させる実質を生んでいるということでしょう。

📝『存在と時間』はしかし現存在の分析だけが売りじゃない!

この存在者が(略)根源的に時間的に実存する(ハイデガー『存在と時間(四)』(熊野純彦訳、岩波文庫)から引用)

こんな言い方で、存在に根源的な「時間」に論述の照準を定めていきます。

現存在は(略)じぶんをそのときどきの状況の世界―歴史的なものに向かって瞬視的に存在する。(ハイデガー『存在と時間(四)』(熊野純彦訳、岩波文庫)から引用)

ここに「瞬(間)」と「歴史」という2つの時間性があることに注目です。ハイデッガーは論じにくい「時間」のからまりをこんな風に解こうとしています。

時間性にかかわるこれまでの特徴づけは、時間性という現象のすべての次元が注目されてこなかったかぎりでは、それゆえそもそも不完全なものである。(略)不完全であるばかりか原則的に欠陥のあるものなのである。時間性には世界時間がぞくしているとして、これがどのようにして可能であり、またどうして必然的なのか。この件が了解されるべきである。(ハイデガー『存在と時間(四)』(熊野純彦訳、岩波文庫)から引用)

先の「瞬(間)」と「歴史」に加えて、客観的な普通の時間である「世界時間」のからみを分析しようとしています。『存在と時間』は第1部前半のみが刊行されている作品ですが、現存在の分析はほぼ完了しています。だからたぶん、現存在の中にある時間性の抽出が第1部後半、その構造を必然とさせるthe時間というものを論じていく第2部前半、the時間を属性とする「存在」そのものを論じる第2部後半という感じで、論を書き進めようとしたのではないかと思います。『存在と時間』は、クリアな思考を積み重ねながら、息継ぎもせずに次の大きな問題に取り組んでいく論述の切迫性が魅力です!

📝『存在と時間』はドイツ哲学界で大ブレークします!

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『存在と時間』が大好評を博すだけでなく、大学の学長になったり、この時期のハイデッガーは打ち上げています!

📝ブレーク中の講義を覗いてみましょう!

存在の真理のうちへ呼びかけられている者は常に、本質的な仕方で気分づけられている。(ハイデッガー選集1『形而上学とは何か』(大江精志郎訳、理想社)から引用)

『形而上学とは何か』から。ここでハイデッガーは、私たちの「固有さ」が恐怖や不安などの「気分」によって基礎づけられていると述べています。『存在と時間』の説明にあたる部分です。訳者の後書きでは「講演の論旨が、聴講した学生やその他の人々に異常な感激を与えたことは想像するにかたくない」とあり、『存在と時間』直後のブレークぶりを伝えてくれます。なお、この本では『存在と時間』に加えて「無に対する存在」という要素を強めて展開させています。

📝戦後は、『存在と時間』の思索領域を渋く広げて深める感じです!

人間性を存在への近さから考えるのがヒューマニズムです。だが同時に、人間ではなくて歴史的な本質が存在の真理からの由来において賭けられている(auf dem Spiel stehen)ようなものもヒューマニズムなのです。(ハイデッガー選集23『ヒューマニズムについて』(佐々木一義訳、理想社))

『ヒューマニズムについて』から。ヒューマニズムの倫理性を、ハイデッガー流の本来性の深みにおいて考察している箇所です。

現代の技術的な諸々の通信器具は毎時間毎時間、人間を刺激し、奇襲し、追い廻している(略)今日では既に人間にとって、自分の屋敷の廻りの耕地よりも(略)一層身近であります。(略)すなわちそれは、土着性の喪失が私共の時代を脅かしている、ということであります。(ハイデッガー選集15『放下』(辻村公一訳、理想社)から引用、ただし旧かな遣いと旧字体を改変している)

これはハイデッガーの現代技術批判。存在の本質を見すえる立場から、それを困難とさせる現代を分析しています。

あとは醜聞寄りの話を!

ハンナ・アーレントの短文「ハイデッガーというキツネ」の話。この冒頭を読むと、多分ハイデッガーはごく近しい人から顔がキツネに似ていると言われていて、本人もそれを悪く思わなかったと解釈できると思う。‟Heidegger says, with great pride: "People say that Heidegger is a fox." (ハイデッガーは大きな誇りをもって語る。「人びとがハイデッガーはキツネだと言う」。)”。アーレントは過去不倫関係を持ったユダヤ系知識人。戦後は彼のナチズム問題(ナチズム政権で学長になり政策に協力的であった)の火消しをしています。ハイデッガーは最低限の釈明以外ナチズムに沈黙しましたが、没後10年資料発掘により「ハイデッガーとナチズム」が再燃します。2014年も新資料の公刊が発表されたばかり。そこでキツネ色→褐色(ナチ制服の色)も考えましたが不定です。


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