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木内一裕『バードドッグ』(講談社文庫)の感想

 前作(『アウト&アウト』)のラストで、私立探偵矢能政男と彼が保護者をしていた小学生の娘の栞と関係に小さくない変化が生まれている。しかし、相変わらず仕事をろくにしていない

 あと一時間以内に誰かが事務所のドアを開けて入ってくるか、デスクの上の電話が鳴り出さなければ、きょうも客はゼロという結果になる。
 矢能にとってはどうでもいいことだった。ただ、ミニキッチンの脇の椅子に座って栞が見張っているせいでまだ飲みに出られないだけの話だ。(p9)

 そしてこの平穏な生活も破られる。矢能の前職である組関係からの電話がある。ためらいなく電話を切るが、渡世の「おやじ」の兄弟分である「叔父貴」からのたっての頼みだと矢能は知る。ここから「組長&組長」が入り乱れる事件が開始される。

 本作は、矢能が依頼を引き受けてもいないうちに関係者(容疑者)たちにコンタクトを求められつづける「第一章 失踪じゃない」、重い腰をあげてヤクザ相手に遠慮なくガラ悪く調査を開始するも、次々と予想外の事態がもちあがる「第二章 調査とは言えない」、調査が進むうちに自分が跡目争いの渦中にいることを知りマル暴からもマークされてしまう「第三章 追求しない」、恐喝され矢能はいよいよ本気になるが、愛するものを守ることと事件の解明のどちらも完遂しなければならない「第四章 真相と違う」の全四章。読み始めたら面白すぎて一気に最後まで読めます。

 本作を読んでまず驚くのは、矢能のアウトロー社会でのすご腕ぶりである。探偵としてはろくに仕事をしていないが、あっちの世界で水を得た魚のように、海千山千のものたちを相手に一枚上手の読みや動きをしつづける。組長のなかの1人に「あんたやっぱりカタギじゃねえし、探偵じゃねえな」(p186)とおどろき呆れられるほどである。矢能が懐刀だった「おやじ」のすごさも推察される。

 それと同時にすごいのは、この小説が「犯人あて」のミステリの趣向を備えていることだ。「容疑者は全員、アリバイなし、動機ありのヤクザたち」(帯文)のように、通常の推理が成立しなさそうな状況をくつがえして真相に近づく。「なんであの人が殺されなきゃならないんです?」/夫人の眼から再び涙がこぼれた。/「それはまだわからない。だが、誰が殺したかわかっている」(p258)と言う時点で矢能は確かに犯人をつかんでいる。おそろしく聡明であり、ハッタリやゆさぶりで解決するような探偵ではないのだ(犯人をあてたい人はp258でじっくり考えるのもおすすめ)。

 そして、さらにこの小説は現在の(世界中の)小説界で希少すぎる正統ハードボイルドの名作である。ハードボイルドの探偵は、机上で推理をしない。容疑者たちと出会うなかで、それぞれの人生と複雑な事件の構図を浮かびあがらせる。この事件で矢能は多くの人物と会うことになるが、その1人1人が(事件のなかでは脇役であっても)心に屈折やたくらみを抱えている。彼らの「人がこの世界を生きているリアリティー」に矢能は直面していき、複雑な事件の構図が浮かび上がるのだ。

 最後に、こんな矢能のやさしい面と関わる「ファミリー」たちの交流がとてもいとしい。矢能にすきあらば仕事をしてもらおうとする「栞ちゃん」、その栞ちゃんが大好きで矢能相手に身許を固めろとぶちきれる「情報屋」、そして今回栞ちゃんが大好きな「美容師さん」が物語に加わり、心温まる交流の範囲がひろがっている。孤独なものたちが愛するものをいたわろうとするという心優しさが、陰惨すぎる事件のなかで、ほっとさせる、だが同時に危険なほど大切なものであることも感じられるのである。

 最後に、矢能のやさしさと危険さを同時に感じさせる引用をして感想文を終えます。

「なるほど、安全そうだな」
「それでも、ちょっとでも不審なものを感じたら、即座に防犯ブザーを鳴らすわ」
「わかった。あんたが安心できる状況を作る」
「午後四時よ。遅れたらすぐ帰りますから」
「今後のため一つアドバイスしておく。そういう場合はすぐに帰らないほうがいい。相手が現れたときよりも、現れなかったときのほうが危険なんだ」
「え?」
「帰り道で攫われる可能性がある」(p211)


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