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『清兵衛と瓢箪・網走まで』(志賀直哉、新潮文庫)の感想

 「人間主義」白樺派に属した、『暗夜行路』「城の崎にて」で有名な作家の初期短編集。カバー折返しの志賀直哉の紹介に「自我の絶対的な肯定を根本とする姿勢を貫き、父親との対立など実生活の問題を見据えた私小説や心境小説を多数発表」とある。
 この「自我の絶対的な肯定」が、なぜか「奇術師が演芸中に出刃包丁ほどのナイフでその妻の頸動脈を切断したという不意な出来事」(p277「范の犯罪」)という唐突な「暴力」になるのが志賀直哉の特徴である。
 「濁った頭」から引用をしてみよう。「暫くはそれでよかったのです。然し間もなく苦痛が起こって来ました、性慾の圧迫です」(p101)「ぼんやりと平気でいる事もできない人間には、唯一の逃げ場は絶望的になる事より他はありません」(p116)「こうなると、今まで澄んでいた頭脳迄が段々に濁って来ました」(p126)「お夏は実際肉慾の強い女でした」(p127)「――けれども、その錐でお夏を殺そう……そう思ったわけではないと思います。無理な解釈かは知れませんが、荒んだ無為な生活にある私にとって鋭い光った長い錐が厚い台をぶつりぶつりと貫す――その感じ、そういう痛快な感じのする生活に入りたい、そんな心持からではなかったでしょうか。然し、それは解りません。」(p137)
 ここにあるのは、その場その場の衝動に身をゆだねるストレスフルな「濁った頭」だ。『清兵衛と瓢箪・網走まで』はスケッチのような作品や親子関係の皮肉を利かせた作品などもすごくいい。しかし「濁った頭」を持つ人間の生々しさがインパクト大である。これらの小説は、志賀の「心境小説」として読みうる点が、さらに凄味を添えるだろう。志賀直哉の登場は、犯罪的なまでに生々しい人間が日本文学に誕生した瞬間だと言える。

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