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『さざなみのよる』(木皿泉、河出文庫)の感想

 この作品は単体の小説としてみたときに破格の構成をもっているだろう。それは本書の冒頭をみてもわかる。

 嫌いなヤツは嫌いなヤツのまま、自分の中では変わることなく死んでゆくのだと思っていた。それなのに不思議な話なのだが、そんな人たちにも今はありがとうというコトバしか浮かばない。「なんなんだ、これは」とナスミは思う。(p9)

 この物語の主人公ナスミは冒頭で死の床についている。主人公が最初に死ぬ物語はいくつかある。しかし、主人公が最初に死ぬにも関わらず(ほぼ)そのまま時間が進行する小説を私は知らない。

 ナスミの心理描写の緊迫が「ここで時がもどる」や「死後にも生きるいのちのファンタジー」が主線にならないと伝わる。それは本作がドラマ「富士ファミリー」のあとに書かれたことと切り離してもいいと思える厳粛さだ。

 みんな、泣きたいぐらい優しかった。意地悪が懐かしく、しかたがないので自分が意地悪になってもみたが、それでもみんなは優しく笑うだけで、そうか、自分はもうこの世界から降りてしまったのだと気づいたのだった。最初は、まだ生きているのにと憤慨したが、そのうち、それもまたこの世で自分に与えられた最後の役なのだと思うようになった。
(p14、「憤慨」のルビ「ふんがい」を略した)

 これがまだ「第1話」だということに驚く一節だ。はたしてこの物語はどこに向かうのか、というまたべつの緊迫感をも読者に感じさせる。どんな展開かは省略するが、大胆にして繊細にプロットがくみあげられている。

 なによりも、ナスミという女性の生き生きとした存在感がすごい。死んでも死なないタマというか、ナスミが他界したあともある意味死んだ感じがないほどに世界のなかでのリアルな存在であるのだ。

 本作はナスミの最期の「第1話」、姉鷹子の喪の時間の「第2話」、妹月美の心の彷徨の「第3話」、遺された夫日出男の「第4話」、笑子が大切な約束を果たす「第5話」、元恋人の清二の「第6話」、悪縁をめぐる「第7話」、約束と約束がリンクする「第8話」、清二の妻利恵の「第9話」、一家の将来と関わる人物の「第10話」、伏線が回収される「じゅおう」の「第11話」、もう1人の同僚の「第12話」、未来の再生の予感の「第13話」、再生も喪失する世界の再生の「第14話」の全14話。エピソードの意外なたたみかけが楽しくあっという間に読んでしまう。

 その一方で、いま生きていること。それが何を意味しいま何をすればいいのかという問いが、話をおうごとに真剣に問いつめられてくると感じる。ナスミが、でも、かれら登場人物が、でもあり、私たちが答える問いなのだ。

 最後に、夫日出男の内面を追う第4話から引用を。

 ナスミがいなければ、そんな呼び名は、もう意味をなさないのだと日出夫は気づく。そうか、自分のことを見て「キ」という字を思い浮かべる人は、もういないのだ。そうだとすると、自分は一体、何なんだろうと思う。(略)たしかにそこにあったと思っていたのに、実は空洞で、まるで何もなかったのではないか。(p45)

 私たちは共に生きているのにどちらか死ぬ不条理。このピュアな実感が人間を文字にたとえる夫婦の会話を思う場面にえがかれる。こんな風に、人間の純粋さを一つずつすくい取りそれが救いと感じさせるのが本作である。

(本作はドラマ「富士ファミリー」のスピンオフとして楽しめる。小泉今日子さんが演じた、元気すぎる幽霊であるナスミの姿をみると、「富士ファミリー」の存在が、本作の深刻な部分に対して一番の救いと感じられる。)

(だが『さざなみのよる』は単体ですごくおもしろい小説だと思う。本作もわかりやすい奇跡や嘘によらず「同じ時間を生きる人たちのために、私たちが死んだあとに生きる人のため」(「あとがき」)にある物語なのだ。)

※木皿泉は、和泉務と妻鹿年季子の2人の夫婦脚本家。『すいか』『野ブタ。をプロデュース』『セクシーボイスアンドロボ』『Q10』などがその作品。『昨夜のカレー、明日のパン』によって小説家としてデビューした後も『ハル』、本作、『カゲロボ』と立て続けに傑作を発表している。

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