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《大学入学共通テスト倫理》のための道元

大学入学共通テストの倫理科目のために歴史的偉人・宗教家・学者を一人ずつ簡単にまとめています。道元(1200~1253)。キーワード:「禅宗」「曹洞宗(そうとうしゅう)」「只管打座(しかんたざ)」「身心脱落(しんじんだつらく)」主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』『正法眼蔵随聞記』

これが道元

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日本曹洞宗の開祖です。日本の禅宗には、曹洞宗と臨済宗が双璧です。

📝道元の曹洞宗の教えは「只管打座」です!

Shikantaza is a form of meditation, in which the practitioner does not use any specific object of meditation; rather, practitioners remain as much as possible in the present moment(フリー百科事典「Wikipedia」、Zazenのページから引用)

「只管打座は瞑想の一形式で、修行者は座禅で瞑想の特定の目的として用いず、むしろ、できるだけそのままの現在時にとどまる」が拙訳。ひたすら座禅に打ちこみ、それ以外の何も行わないこと。これが「只管打座」です。ところで、これは英語版ウィキの「座禅」の項目ですが、「只管打坐」のページもがっつり作られており、「禅」ってワールドワイドだなあと実感できます。

📝でも何で「只管打坐」が大事なの?

先師なる如浄禅師は、日頃からつねに仰せられていた。
「わしのところでは、焼香だ、礼拝だ、念仏だ(略)といったものは用いない。ただひたすらに打ち坐って、道をまなび行を修して、身心を脱落するのである」


先師尋常ニ道ク「我ガ箇裏、焼香・礼拝・念仏(略)用ヰズ、祗管打座シ、弁道功夫シテ、身心脱落ス」
(『現代語訳 正法眼蔵 第五巻』(増谷文雄訳、角川書店)から引用。ただし、原文の引用は訓点送り仮名を付した漢文表記を書き下す改変を行っている。)

「只管打座」は、道元の師である中国曹洞宗の禅僧の天童如浄ゆずりの教えです。「只管打座」によって生まれる「身心脱落」という悟りの状態が大事だという話です。

📝『正法眼蔵』で、「只管打坐」⇒「身心脱落」の流れを見ましょう!

◎まず、座禅には内観があります!

ぴたりと坐って、かの不思量のところを思量するのである。では、不思量のところを、どのように思量すべきか。それはもはや思量ではない。

兀兀と坐定して箇不思量底ヲ思量スなり。不思量底如何ンガ思量セン。これ非思量なり。
(『現代語訳 正法眼蔵 第五巻』(増谷文雄訳、角川書店)から引用。ただし、原文の引用は訓点送り仮名を付した漢文表記を書き下す改変を行い、ルビも略した。)

これが道元の「不思量を思量する」。いかにも禅らしい教えですが、「只管打座」で思考の基底にあるもの(「非思量」であるところのもの)を浮かび上がらせる内観があると言えるでしょう。

◎そして内観は個を離れていきます!

自己が観るのでもなく、他が観るのではない。時の関係(略)を超絶する

不自観なり、不他観なり。時節(略)超越因縁なり
(『現代語訳 正法眼蔵 第二巻』(増谷文雄訳、角川書店)から引用。ただし、原文の引用はルビを略した。)

「私」が内観するのではなく(また「私」以外の何かが内観するのでもなく)、その基底にある観ずることを可能とさせるナニカによって行われるということ。そのからくり(「時の関係」)を観ずるときに、世界を超越する「悟り」が生まれるという内容です。

◎そして、内観が世界の法に肉薄していきます!

すべてこの世界にはまったく外より来るものはない。(略)突如として出現する有でもない。(略)だから「こんな物がどうして来たのだ」という。

尽界はすべて客塵なし(略)倏々の有にあらず(略)是什麼物恁麼来のゆへに。
(『現代語訳 正法眼蔵 第二巻』(増谷文雄訳、角川書店)から引用。ただし、原文の引用はルビを略した。)

世界に外がないのに、「どうして来た」と問うのがポイント。修行者はこのとき現在の世界を生起させる世界の法則に触れていくことになります。

◎こうして世界の法に肉薄し、時間の絶対的法則の内外に立ちます!

生死はとりもなおさず涅槃であると心得れば(略)その時はじめて生死をはなれる者となるのである。(略)生と死のありようは、生から死に移るものだと思うのは、まったくの誤りである。

生死すなはち涅槃とこころえて(略)このときはじめて生死をはなるる分あり。(略)生より死にうつると心うるは、これあやまり也。
(『現代語訳 正法眼蔵 第八巻』(増谷文雄訳、角川書店)から引用。ただし、原文の引用はルビを略した。)

「生から死に移る」時間の絶対的法則自体に内観を通すことで、修行者はその両方に立ちます。そこが「涅槃(ねはん⇒悟りの境地)」とされています。

◎座禅内部で、こんな内観が大展開して「身心脱落」に至ります!

仏道をならうとは、自己をならうことである。自己をならうとは、自己を忘れることである。自己を忘れるとは、よろずのことどもに教えられることである。よろずのことどもに教えられるとは、自己の身心をも他己の身心をも脱ぎ捨てることである。(略)やがてまたそこを大きく脱け出てゆかねばならない。

仏道をならうといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(略)休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

(『現代語訳 正法眼蔵 第一巻』(増谷文雄訳、角川書店)から引用)

これが道元の「身心脱落」。自己を成立させる基底をつかむことで、自己を離れる悟りの状態を言います。

📝これが道元の禅です!

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「禅」というサンスクリット語の「ディヤーナ」の音写です。『ヨーガ・スートラ』で言うところの「ディヤーナ」は、意識が対象を離れ、神的にひろがっていく状態を指します。道元の教えは、こうした禅の奥義を攻めたものだと言えます。そして、画像の漢字は旧字体の「禪」と「禅」が混じった漢字表記です!

📝道元は日常の作法も熱心に説き、それが面白いです!

大小便ののちにはへらを用いるがよい。(略)へらも用い方をわきまえねばならない。へらは長さ八寸にして三角につくる。大きさは手の親指大である。

屙屎退後、すべからく使籌すべし。(略)浄籌・触籌わきまふべし。籌はながさ八寸につくりて三角なり、ふとさは手拇指大なり。
(『現代語訳 正法眼蔵 第一巻』(増谷文雄訳、角川書店)から引用、現代語訳の「拇」を「親指」に改変し、「へら」の傍点と原文のルビを略した。)

道元の『正法眼蔵』は仏道と禅の奥義を述べたものでありつつも、同時に生活に即した面も持ちます。トイレ作法を述べたこの部分は、当時の生活習俗を知る上でも貴重なものとなっているでしょう。意欲的に現実生活も論じた道元が健康的で元気な感じです。

📝道元の元気さは『正法眼蔵随聞記』でも読めます!

ある日教えて言われました。人が教えを質問したり、あるいは修行の方法を尋ねられることがあったならば、破れ衣の禅僧は、必ず実意を用いてそれに答えるべきです。(略)信じて行く道で答えるべきです。

一日、示に云、人法門と問う、或は修行の方法を問うことあらば、衲子、須ラク実ヲ以テ是ヲ答ウベシ。(略)大乗を以て、答うべき也。
(『傍訳 原書で知る仏典シリーズ 正法眼蔵随聞記』(中野東禅編著、四季社)から引用。ただしルビは全て省き、現代仮名遣いもそのまま用いた。)

弟子の懐弉が道元の言葉を書きとめた『正法眼蔵随聞記』から。どんな相手や場合でも自分の信ずるところを全力で説けと言っています。こんな風に元気よく禅を説いた道元の教えは、いま読んでもポジティヴなものと感じられます。

あとは小ネタを!

道元の主著は『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』。これは「正しい教えの眼をおさめた蔵」と直訳できる。この「眼」がポイントで、正法は理解でなく、「眼」でみるように知覚すべしという発想がある。このへんが禅。

道元は「作法是宗旨(さほうこれしゅうし➡︎日常の作法が教えの中心となる)」の立場から、日常の作法を熱心に説いた。「歯ぐきの肉のうえも、よく磨いて洗うがよい。歯と歯のあいだも、よく掻いて清らかに洗うがよい」。健康的でいい教えだと思う。

道元は、仏者であることの男女平等を説き、女人禁制の結界を「笑うべきこと」というレベルで批判しました。健康的な思考をなした仏者だと思います。座禅の修行そのものがそのまま悟りの体現だという「修証一等(しゅしょういっとう)」「修証一如(しゅしょういちにょ)」という考えも、やっていることの大肯定であるという意味で、健康的だと思います。

ちなみにこちらは達磨大師です!

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道元は日本曹洞宗の開祖。そして禅宗ぜんぶの祖師は、中国で活躍した印度僧の達磨大師。彼の格好いい肖像がこれ。だるまさんの赤のデザインは、彼がかぶったこのブランケットみたいなものに由来するそうです。日本の絵師月岡芳年の画。


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