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『城』(フランツ・カフカ、新潮文庫)の感想

「あなたのお考えは、遠いあなたのお故郷(くに)ではたぶんまっとうな考えとして通用しているのでしょうけれど、当地ではまるで無意味なんですよ。」(p172)
 日常世界の常識が「無意味」である「城」のある村。そこに測量士として到着した「K」は、奇妙な状況にいつづける。測量士など呼んでいないと厄介払いされそうになったり、後から到着した古くからの助手たちは、まるで見覚えのない双子だったり。測量士として身元が保証されたと思いきや、そうでもない。急に「城」の長官の愛人と恋仲になったり、意外に濃厚なラブ・シーンもある。
 ところで、城のお偉いに直接かけあうことはできない。ただその影を使い走りや秘書たち、そして村人たちの非難めいた様子から窺うだけ。この状況を読んで私たちは主人公の「K」より先にこう思う。「定住しようという望み以外に、こんな荒れはてた土地に」(p277)とどまるのは「いったい、なんだろう」(同)と。
 つまり、『城』は世界観もキャラクターも不明なまま展開する「ザ・不条理文学」である。ありえないが何だかなまなましい。このラインが不条理文学の読みどころだと思うが、その受けとめかたは難しい。「常識は違うが、本当の世界はこうだ」とか、「常人はそう思わないが、カフカはこうだ」とか、そんな風に解釈してしまう。すると、不条理文学のなまなましさは条件づけのなまなましさになってしまうのである。それが退屈なので、私は『城』を無条件になまなましい小説と読んでみたい。
 未来とは私たちにとって何か。それは期待と不安の両方である。そして、世界不況下の中の日本で想像しやすいが、それがなければ私たちが生きる意味を感じにくいものである。この「未来」を比喩するとき、本作の「城」となる。「未来」は絶対的な権力を持つ。それに疑問をさしはさむものは私たち「村人」の誰もいない。ここでは「未来」のためにすべきことが「職務」であり、「未来」が私たちのためにあるということが忘れられている。「職務と生活が入れかわっている」(p122)のである。
 私たちが未来に自分の力を賭けて生きていること。それを「未来は私たちに賭けさせる力をもつこと」と言い換えると本作の世界観が浮かび上がる。私たちは未来を欲するが、それが得られる保障はじつはない。だから私たちは少しでも未来を感じるものにすがりつこうとする。「城内でたえまなしにかけているこの電話の声は、村の電話で聞くと、なにかざわめきの音や歌ごえのようにきこえるのです(略)ところが、このざわめきと歌ごえこそ、村の電話がわれわれに伝えてくれる唯一の正しいもの、信頼するに値するものでしてね」(p150-151)という具合に。
 マシな未来を選んでいると感じるさ中にも確証はない。このとき、未来と私たちはみだらな密約のように関係するとも言える。愛人たちが本作で重要な役割を持つのはここにあると思う。未来と愛人関係にあったり、未来に支配されていたり、こうしてみると、個性や環境の違いに関わらず、人間たちが悲惨に見えてくる。
 その悲惨さの中の「K」に城から手紙が届く。「橋屋の測量士どの! あなたがこれまでにおこなった測量の仕事を、わたしは高く評価している。」(p241)
 これは「測量」を全くしていないという意味で単にでたらめである。しかし、ここに深遠な意味があるかも分からない。これは未来らしいやり口であると言える。いま行為に込めた意味を奪い去り、評価するのも「未来」というものの性質であるのだから。
 どうやら「K」はこの未来と対決しているようなのだ。「未来の運命」と対決するのではない。運命をもたらす「未来」そのものと戦うようなのだ。それは不可能な戦いである。だが同時に、充実したいまを生きようとする私たち全ての戦いでもあるとも言える。最後の引用するのは、「K」の居眠りの場面である。眠り心地の充実によって、いまは「未来」に勝利する。だが同時に、これがただの「夢」の勝利でない保障はない。それがこのフレーズの意味だろう。
「眠りの底には達していないが、すでに海のなかにはつかっていた。これを他人に奪われてたまるものか。すると、これによって大きな勝利をおさめたという気がした。そして、すでに勝利を祝うために人びとが集まっていた。彼は、あるいは、別のだれかかもしれないが、祝賀のシャンペン・グラスを高くかざした。これがなにの勝利であるかを一同に知らせるために、戦いと勝利がもう一度反復された。いや、どうやら反復でないらしい。これから戦いが始まるのだ。そして、いまからその前祝いがおこなわれているのである。さいわい戦いの結果がわかっているから、前祝いを中止しないのだ。」(p525-526)

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