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『日輪・春は馬車に乗って 他八篇』(横光利一著・岩波文庫)の感想

 昭和戦前の文学を代表する新感覚派の両雄の一人。もう一人の川端康成が横光の弔辞に「君に遺された僕のさびしさは君が知ってくれる」と述べたそうである。この二人の間柄は、盟友と呼ぶべきものなのだろう。

 本作の収録作は、妄想癖のある孤独な子どもが母の行動に巻き込まれる「火」。大人の思惑の中奇妙な顔に笑われる妄想を抱く子どもを描いた「笑われた子」。宿場の馬車待ちの人たちの顛末と蠅も同時に描いた「蠅」。どうしても姉の子どもの生命の安全ばかりが気にかかる青年を描いた「御身」。馬鹿明るい宿の子どもが客の少女をひたすら面白がらせようとした挙句の「赤い着物」。ヨーロッパ征服に駆り立てられたナポレオンは自分の腹を病菌に征服されていた「ナポレオンと田虫」。死病の妻の看病を続けて疲労の末の「春は馬車に乗って」。その「春」さえもなぐさめとならない妻の死と向き合う「花園の思想」。ネームプレートのメッキ工場に勤めているうちに語り手も周りもおかしなことになる「機械」。日本以前の日本で卑弥呼を男たちが奪い殺し合い、卑弥呼の心の日輪が荒れ狂う「日輪」の全十篇。

 横光利一は、短編において、人間を「怪物」と「機械」として描いた作家だと言える。
「今は、彼の妻は、ただ生死の間を転がっている一疋(いっぴき)の怪物だった。あの激しい熱情をもって彼を愛した妻は、いつの間にか尽く彼の前から消え失せてしまっていた。そうして、彼は? あの激しい情熱をもって妻を愛した彼は、今は感情の擦り切れた一個の機械となっているにすぎなかった。」(p120「花園の思想」)

 なぜ人間が「怪物」と「機械」になるのか。それはこの引用の内容とは逆に「情熱」を持つためであると言える。「情熱」が現実から外れるとき、人間は不可解な業を宿した「怪物」となる。その怪物にならないために、外界とのつながりを保ちつづけようとしたとき、人は関係の中で生きる「機械」となる。

 「火」、「笑われた子」、「赤い着物」の主人公たちからは情熱を内蔵した「怪物」を感じる。また、その「怪物」の目を通して見られた人間も「怪物」となる。「姉がそういうと、父と兄は大きな声で笑った。/その夜である。吉は真暗な涯のない野の中で、口が耳まで裂けた大きな顔に笑われた。(略)頬の肉や殊に鼻のふくらぎまでが、人間のようにびくびくと動いていた。」(p22「笑われた子」)

 このように人間を奇妙な怪物/機械として扱う視点は、外界の生物・事物と同列に人間を扱う視点でもある(「蠅」「機械」、「花園の思想」の「美事な心境」(p144)など)。
 この不気味な、同時にあっけらかんとした視点から繰り出される力感のある鮮烈なイメージが、横光利一の読みどころと言える。

 しかし、それだけではない。
 人間が「怪物」や「機械」となってしまうとき、その間にある「真空のような虚無」(p120)を埋めようとする人間の必死さが「花園の思想」には描かれているのだ。

「あなた、あたし、もう死んでよ。」と妻はいった。
「もうちょっと、待てないか。」と彼はいった。(p142)。


 「怪物」と「機械」が交わす、この平凡過ぎる、だがどこまでもいとしい対話を私はこの本のベストと読んだ。

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