らでぃふぇれんすでぅきゅるちゅーるLaDifferenceDeCulture? numero2
文化は違いすぎると、興味の対象というより、興味本位が呼び起こされる、と言ったほうがしっくり来る。 私は鈴木孝夫さんの著作のファンの1人だが、鈴木氏は、日本文化と西洋文化の間には文化的つながりが絶対的に少ないとの考えを述べていた。私は、そうかなぁと漠然としか、その違いを感じていなかった。日本は経済大国でいわゆる西欧諸国と同等の生活のレベルだし、テレビで大量に流される映像と情報で、文化の違いがなくなってしまうのではないか?と思ってしまうほどなのに。
しかし、今ソルボンヌの授業を受けていて、その文化の違い、つながりがないということが、どういうことなのか見えてきた気がする。 フランス文学の文豪バルザック作『ゴリオ爺さん』を読んで、先生がその時代背景、単語だけでは理解できない生活習慣を説明する。大理石で出来た家具の説明では、ブルジョワ家庭を象徴する高価なものであり、大理石という記述があるだけで、その家庭の状況の想像を広げていくことが出来る、と言った。
そこで、先生はソルボンヌに居る生徒たちに、各国での大理石の価値を聞いてみた。まずヨーロッパ諸国の人々の状況は同じだろうと推測して、アジア諸国の生徒に、「大理石はアジアでも高いのか?」と質問する。私はちょっとびっくりした。大理石はそりゃあどこでも高いでしょ?でも、それは聞いてみなければはっきりと認識出来ないことなのだ。もしかしたら中国で大理石の採掘が多ければ、ヨーロッパほど高くないのかもしれない。そして中国に程近い日本でも同じ状況が生まれるかもしれないのだ。 先生にそこまでの考えがあり、この質問をしたわけじゃないだろうが、私には、何気ない質問、会話のなかに、文化の近さ遠さを感じさせる要素が含まれているんだなぁと思った。
フランス人の先生は、やっぱり西洋文化の前提を少々省きながら、授業を展開していく。そこに鈴木氏も言っていた両刃の剣(前提を省いて外国文化を取り入れるので、その省いた部分を日本の文化で補いつつ外国文化を取り入れると、その文化の本来の意味失われる可能性があるとの例え)があるのだろう。
あるときはキリスト教のカトリックとプロテスタントの違いについて。あるドイツ人留学生が、スタンダールの『赤と黒』の主人公はカトリックですか?と質問した。すると先生は、「もちろん!そうじゃないとこの文学が許されないわよね」と笑いながら応える。そのドイツ人留学生も妙に納得したようであった。 一方私は、ぼんやり、「プロテスタントの主人公だったら、なぜこの文学が許されないの?」という基本的な疑問が頭をかすめた。
フランス文学を読むときには、前提としてキリスト教徒である状態を普通の状態としているのだろう。私の乏しいキリスト教知識でこの答えをひねり出すと、プロテスタントは性に対する考え方が、カトリックよりも厳しいから、女主人を誘惑する若い主人公をプロテスタントとすると、スタンダールがこの文章を書いた時代を考えると、よほど考えつかない人物像なんだろう。 そして、この主人公がカトリックかプロテスタントかを気にすることが出来るドイツ人留学生は、フランス文学を読む上の前提をある程度獲得していると言える。フランスとの地理的な近さ、文化的交流具合、同じ宗教で、西洋文化にどっぷり浸かって生きてきたことでその手段を獲得している。
そこで日本人の状況を考えてみると、西欧諸国との距離的な遠さ(こちらの地図では大西洋を中心としているので、日本ははるか彼方の中国大陸の端である)、文化的交流の薄さ(日本人は、よく海外旅行をし、ワインを愛好するようになり、テレビの旅番組では一番人気のフランスを、何かおしゃれな理想で固めてしまって、そのおしゃれな部分だけをよく知っていることで、知っていると思い込んでいる気がするが、それは文化的交流とは言えないだろう)、もちろん違う宗教(お盆、生まれ変わり、干支などは西欧社会には前提として存在しない)。。。
各国の人が集まって行う授業で発言する場合、よく日本人は消極的と言われるが、それだけではなくて、あまりに文化の前提が違いすぎて、授業で取り扱われる題材に、質問する取っ掛かりがないのだ。日本ではこう、中国ではこうと言う事は出来る。しかし、授業の題材を膨らます、西洋文化と関係のある状況を自分達の生まれ育ってきた日本文化の中に見出せないので、ちょっと知っている西洋の常識を借りて、それを質問に絡ませるしかない。
そこで、日本文化、中国文化ではこうだ、と授業で発言したとして、フランス文学、フランス語の文法を深められるだろうか?文化の違いを再認識することは出来るだろうが、そこに関係性を見出すことは難しい。そして、その発言は興味本位のカテゴリーに入れられ、授業での広がりは期待できない(もちろん文化の差異を題材とする授業や研究ではその反対であるが)。
スペイン語圏、ヨーロッパ圏の留学生が発言を普通にし、アジア圏の留学生が発言を控えるには、こういう側面も前提としてあると思う。そこを気づかずに、(おそらく先生たちも気づいていないだろう)留学地で語学なり文化なりを勉強していると居づらさを感じることもあると思う。私個人の授業内での立場もある意味、このような文化の前提が違う結果なのである。
※この文章は、2014年2月19日に書いたものです。
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