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マザーハウスカレッジに行ってきました

就活でベネッセは受けなかったし、30歳になる今日まで教員になりたいと思ったことも、教育業界に興味を持ったこともなかった(というか正確に言うと、興味はあったけれど避けていた。「教育」というテーマ自体が深淵すぎて、曖昧すぎて、一度ハマったらずっと取り憑かれてしまう "哲学の沼" みたいなイメージがあったからだ)


ところが大学を卒業して社会に出て、数年働いて結婚して、子供を持つ親となることが現実味を帯びてくるまでの間に、やはり時折教育について考えさせられることがある。それは何かとても面白い本や学問に触れた時どうしてこれをもっと早く学校で教えてくれなかったのか?と思うものでもあるし、何か困難にぶち当たった時に助けられた知恵やスキルに関して、どうして私の行った学校は、あれだけの潤沢な時間をもってして教えてくれなかったのか?と感じるような、いわば後悔や怒りの織り混ざった疑念とも言える。


0: もっといい教育を受けたかった


あなたは、自分が通った学校に子供をいかせたいと思うだろうか?(ここでいう「学校」とは、義務教育の小学校・中学校を想定している)私は1mmも思わない。自分の通った学校は、最悪の選択肢ではなくとも、もっといい学校はあるはずだと思ってしまう。なぜなら知識の習得において周囲の子との習熟度にあまりにもギャップがあったため、自分にとって授業は簡単すぎて、暇で、面白くなくて、試験も5分ほどで解き終わりほぼ満点が取れて、つまらなかった思い出しかないからだ。(ここで私が言いたいのは、自分が群を抜いて成績が良かったということではない。学力ではなく単に地域ごとに区分けされて人が集められる公立の小中学校において、一斉指導するという仕組みが学習の個別最適化を困難にしていたということである。そしてそれは一部の子どもにとって通年6+3年もの間ヒマ地獄が続くことを意味する)



したがって、将来子供にどんな学校に行って、どんな教育を受けさせたいか?を考えた時、親目線で「ぜひ通わせたいと思う学校」がイメージできず、自分の子供が小学生になるとき、日本の教育はどうなっているのだろうかと不安にならざるを得ない。


こうして今まで毛頭興味を抱いてこなかった教育というテーマに私は極めて個人的な理由で関心を抱くようになり、先日<ゲスト:今村久美、神野元基>「教育の未来」徹底討論。何が 変わるべきか、何が 変わらないべきか 最新のオンライン教育 と 現場のリアル ~マザーハウスカレッジ 木曜生カレッジ~ というWebinarに参加するに至った。



ちなみに以下は内容を綺麗にまとめたものではなく、心に残った言葉や要点を断片的にピックアップしながら、私なりの解釈や回顧を絡めて書き留めただけのものである。


↓Webinarでお話されたのはこの方々(以下は動画の説明文からコピペしたもの)

(今村 久美 氏プロフィール)
79年生まれ。慶應義塾大学卒。
2001年にNPOカタリバを設立し、高校生のためのキャリア学習プログラム「カタリ場」を開始。
2011年の東日本大震災以降は子どもたちに学びの場と居場所を提供するなど、社会の変化に応じてさまざまな教育活動に取り組む。
「ナナメの関係」と「本音の対話」を軸に、思春期世代の「学びの意欲」を引き出し、大学生など若者の参画機会の創出に力を入れる。
ハタチ基金 代表理事。
地域・教育魅力化プラットフォーム理事。
中央教育審議会 委員。
東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 文化・教育委員会委員。
(神野 元基 氏プロフィール)
1985年、北海道生まれ。慶應義塾大学総合政策学部在籍中から起業家として活動。2010年、アメリカ・シリコンバレーでIT企業を起業した際に、2045年に起こる「シンギュラリティ」という概念に触れ、教育の道を志す。2012年より学習塾COMPASSを設立、地域No.1学習塾に成長させる。2015年、世界初となる人工知能型教材Qubenaを開発。同年、AI先生が教える塾「Qubenaアカデミー」を設立。2016年、日経コンピューター「ミライITアワード2016教育部門」にてグランプリを獲得。2019年より中央教育審議会委員。著書に、『人工知能時代を生き抜く子どもの育て方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)がある。
(山崎大祐氏 プロフィール)
1980年東京生まれ。
慶應義塾大学在学中にベトナムでストリートチルドレンのドキュメンタリーを撮影したことをきっかけに、途上国の貧困・開発問題に興味を持ち始める。
卒業後、ゴールドマン・サックス証券にエコノミストとして入社。
その後、創業前から関わってきた株式会社マザーハウスの経営への参画を決意し、07年に取締役副社長として入社。19年から代表取締役副社長に。
他にも(株)Que社外取締役、日本ブラインドサッカー協会外部理事、TBS朝の情報番組グッとラックの金曜レギュラーコメンテーターを務める。



1: そもそも何のために「学校」は存在するのか?


「中学校」と聞いて今でもすぐに思い出すのは、同級生のリエちゃん(仮名)だ。彼女は私とあまりにも異質で、不可解で強烈な存在だった。


リエちゃんの歯はいつも黄色くて、髪の毛は雨の日でもないのにベットリ湿っていて、いつもリエちゃんからは犬やおしっこの匂いがした。リエちゃんは私と同じくらいの身長なのに、足はびっくりするくらい細くて、学校指定の白い長靴下がいつもくるぶしまで落ちていた。だからみんなリエちゃんを避けていたけど、私は仲間外しをすることはよくないという私なりの正義感から、頻繁に話しかけた。


リエちゃんの不自然さと異常さは、その不衛生で不健康な見た目だけではなかった。「昨日何してた?」「今度お祭りがあるんだって。一緒に行かない?」といった簡単な質問にも答えられないし、何を聞いても答えるのに呆れるほど時間がかかる。声が小さいし、発話が極めて不明瞭だった。こんな風だから授業で挙手したり発言したりすることもなく、みんなが満点近くとる簡単な小テストですら、リエちゃんの点数は一桁だった。そんなリエちゃんに対して、私は幼心に何かがおかしいと感じていたけれど、大して何もできないまま中学卒業とともに疎遠になり、今はどうしているかもわからない。果たしてあれから一人前の大人になっているのだろうか?



今思えば、私は虐待・ネグレクトに気づいていながら何も踏み込んだことをせずに彼女を見捨てた冷酷な傍観者の一人に過ぎなかった。そしてそう過ごしてしまった罪悪感に、今でも苛まれている。



そんな私だから、Webinar の中でNPOカタリバの今村さんがおっしゃった「学校って、唯一子供たちが安全につながることができる場所なんです」という言葉がすごく腹落ちした。


リエちゃんにもし学校という「つながり」がなかったら、リエちゃんに向けられる社会の目は無くなる訳で。そうするともっと異常な環境に置かれていたのではないかなとおもう。あの頃リエちゃんにとって学校というつながりはギリギリの命づなだったのかもしれないし、彼女の親にとって「学校がある」というある種のプレッシャーが、あれ以上にネグレクトを進行させないように機能していたのではないだろうかとも思う。こんな楽観的なことを言っては不謹慎かもしれないが。



今村さんはカタリバをもう20年近く運営されているらしく「学校の先生や親以外の人が、子供達の日常に再現性を持って入るべき。そして(中略)今は未来が見えないとか、苦しい思いをしている子供達に地球規模の世界を見せてくれる。そんな縦でも横でもない関係を作っていきたい」という夢を抱いていらっしゃった。


Webinarに参加しながら、リエちゃんがカタリバに出会えていたら、と思わずにはいられなかった。


2: いい学校とは何か



学校が果たすべき最低限の役割とは何だろうか?


上に書いたように(今村さんがおっしゃったように)、子供達が安全につながることのできる場の提供というのは答えの一つかもしれない。加えてWebinar登壇者の今村さんは学校が「ない」ことで生じる問題として「子ども達の生活リズムが乱れること」を挙げていらっしゃった。


休校期間中、子ども達は家にいて、多くの場合親以外の誰も監視をしないという比較的 "ゆるんだ環境下" に置かれる。そして "楽しいもの" はネット上に際限なくある。そのため、朝方まで好きなことをしてしまう子供がたくさん出てくるのだという(ちなみに大学時代廃人だった私は、学校はあったが生活は乱れていたw)つまり学校は子ども達がきちんと朝起きて、夜寝るというサイクルを作るためにも機能するという。


それでは、生活リズムを整えられて、安全なつながりさえ提供できれば学校の機能として十分なのだろうか?


Webinarではこんな話もされた。コロナ禍で一斉休校になった期間中、もともと対面で活動してきたNPOカタリバは、ネット上に子供達の居場所、学びの場所を作る企画を立ち上げられたのだという。


この企画の中でカンボジアの孤児院と日本の子供をつないだとき、ある日本人の子が「なんでみんなにはお父さんお母さんがいないの?」と無邪気に聞いたそうだ。すると孤児院の子が「いなくないよ、シスターがいるよ」と "明るく" 答えたのだという。


これを聴きながら私は自身が抱いてきたある思い込みに気付かされた。私は「お父さんとお母さんがいないことは悲しく、寂しく、可哀想なことだ」と心のどこかで思っていた。でもそうではない。実際には、カンボジアの孤児院の子が反証するように、"その見方は事実と異なる" のである。おそらくこれは私が私の周囲の環境によって刷り込まれた「当たり前」であり、こう言った類の「AはBであるはずだ」「CはDでなければならない」という "誤解" を私はこれ以外にも無数に抱えているのかもしれない。そして誤解に基づく発言や行動によって、誰かを傷つけたり、誰かの可能性を狭めてきてしまったのかもしれないと思うと、恐ろしい気持ちになった。 


私の祖父は、4年前に亡くなったが、幼い頃に交通事故で片足を無くした、いわゆる障害者だった。そして祖父は自分が「障害者であること」に異常なほどコンプレックスを抱いていて、「障害者だからばかにされている」という強烈な思い込みの元に生きていた人だった。隣人や友人とトラブルになった際「どうせあの障害者が、と思っているんだ」と呟くのを何度も耳にした。


私から見ると「障害者だからばかにする」こと自体が祖父の妄想だと思えてならなかったし、そのような意識が存在したとしても、理不尽である。それなのに、祖父は自身の思い込みに雁字搦めになって、自ら可能性を狭め、そしてその思い込みから、度々他人を傷つけていた。だからこそ、私は子どものうちからより多角的で多様なものの見方ができるような教育が必要だと強く感じるのだ。


だからこそ、上述の(カタリバがカンボジアと日本の教室をつないだ)授業は、子どもたち自身の見方を変え、一定の見方を違う角度から捉え直し、柔軟なものの見方をさせるという意味でとても重要な「学び」を提供するものだと感じるし、


「いい学校」というのは、まさにこういう "自分の見方を疑う" 機会を提供してくれるところだと定義しうると考える。


3: いい学校を作るために今動き始めているプロジェクト


では、そのような「当たり前を疑う」教育ができるようになるにはどうすればいいのか?


これはWebinar の中で指摘されていたこと(どなたがおっしゃってたかは忘れてしまった....)だし、自分自身の学生時代を思い出してみてもわかるかもしれないが、小学校・中学校の子どもたちの学習時間は国語・算数・理科・社会....などのいわゆる「知識」を蓄えさせるための時間にほとんどが費やされていて、忙しいのだ。


しかし冒頭でも述べたとおり、それらの授業は子ども達一人一人のレベルに合わせられない一斉指導の形式をとるため「半分くらいの時間は、みんなにとって意味のない時間」である(Webinar 登壇者の神野さん)


では一斉指導はヤメたらどうなのか?子ども1人に先生1人をつけてそれぞれのレベルに合った個別指導の授業ができないのか?


実はこの "一斉指導からの脱却" は、神野さんによって現在すでに50自治体、生徒数でいうと20万人を対象に試みられているのだという(しかも導入により従来の平均約2倍のスピードで勉強を進められているという)



神野さんがつくった「Qubena(キュビナ)」は、従来型の「知識を与える」学習を極限まで効率化・個別最適化させるロボット先生みたいなもの。これを使うことでこれまでのカリキュラムに費やされていた時間を短縮することができ、今までは時間がなくてできなかった議論・対話・コミュニケーション力などを育むため時間が生まれる。するとこの時間の中で「2. いい学校とは何か」のところで書いたような、当たり前を見直すための授業だってできるようになるかもしれない。


ちなみにQubenaは子ども達一人一人が問題をどうやって、どのくらいの時間をかけて説いているかをデータで把握できるという。子ども達はタブレットに手書きで書き込んで、書き込んだデータが次の学習に活かされるから、どうして間違えるのかもわかる。そしてAIのQubenaが、その子が最もつまづいているポイントに戻してくれるのだという。


4: 1人の先生が一方的に話す時代は終わり


Qubenaの利点は他にもある(このnoteは広告ではありません)。


実際にQubenaを使って授業をしてみると、「質問をしても誰にも迷惑がかからない」(そもそも一人一人が自分のペースでしてるから)から、子ども達はわからなくなった瞬間に先生に質問できる。授業中に友達と教え合うのも自由。だからQubenaを使った時の教室はまるで学級崩壊しているかのようなワイワイガヤガヤ具合なのだという。今後Qubenaがもっと普及すれば、もしかすると10年後の日本では


「授業についていけない」


が死語になるのかもしれない。「授業のペース」=「自分のペース」なら、子ども達が勉強によって自信をなくすこともなくなるかもしれない。誰もが笑顔でワクワクして、学校が大好きだと言ってくれるような未来が、AIなら実現できるかもしれない。そんな希望を見せてもらえた Webinar だった。



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