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【エッセイ(前編)】充実はどこに...空いたら埋めて、また空いて。

20代の頃は何ともいえない虚しさや,不満,不安を抱えて生きていた。

日々仕事や研究で忙しくしていて,一日一日充実している「と言い聞かせていた」。

しかし,それが結果的に30歳で爆発して,「何をやっても無駄」「何も意味がない」と言うようになっていた。

今考えれば,あの時の考え方は極端だった。一方で,当たっているところもあることにも気がついた。


「何をやっても意味がない」と考えるようになった私は,とりあえず生活だけはしていけるようにと最低限働き,それまでにも増して飲みに出かけるようになった。

おじさんたちとげらげら笑いながら過ごし,あとは仕事してぼーっとして…という日常であった。おかげでおじさん達との親交は深まり,今では良かったと思っているが。

その頃はニュースも全然見なくなっていた。「何をやっても意味がない」のだから,当然社会の出来事などまったく意味を感じられない。自然と関心はなくなっていった。

今考えれば,あの時の体験は必要だったと思えるのだが,あれが続いていたら…と思うと寒気がしてくる。


しかしながら,「意味がない」というのは当たっているところもある。
最近は,行動や現象「自体」に「一般に」はそれほど意味がないと考えるようになった。(もちろん,これは日々社会のために頑張っている方々を揶揄しているわけではない)

考えてみればそうである。同じ経験をしていても,楽しい時もあれば何も思わないときもある。カラオケは楽しいが,連日行くと楽しくない。お寿司はおいしいが,あまり食べ続けるとおいしくなくなる。お酒の場は楽しいが,連日続くと普通につらい。お肉は年のせいか脂身が多いのが食べられなくなった。
(最後の方は関係ない。ただゲームは楽しい。やめるタイミングが見つからない。絶妙なタイミングでイベントが起こる。開発者は天才だ。)


「充実感」という言葉が示す通り,それを感じるにはまず「不足」がなければならない。満たされていれば,それはすでに「充実している」。

以前は「不足」がなかったのだと思う。
考えてみれば,仕事や研究内容はいつも上から降ってきた。
博士課程では自分で研究内容を決めることになっているとはいえ,修士まででやってきたことの延長でもある。元々は降ってきているのだ。

「当たり前」のことを人はわざわざ意識しないので,不足がなくすでに充実しているところを,周囲を見て「もっと充実させなきゃ!」と思い込んでいたのだと思う。隣の芝はいつでも青かった。

今思うとそれを続けるのは確かに苦しいだろうと思う。
満ちているところにさらに何かを足そうとしているのだ。当然あふれる。
当時は漠然とした「何かすごいもの」になろうと憧れていた。


「好きなことだけして生きていこう」とよく言われる。

「それだけでやっていけたら誰も苦労しないよ」と思う人も多いだろうし,私もそう思う。

しかし,少し立ち止まって,「好きなことは何だろう?」と真剣に考えてみるのは悪くない。

これは自分の「不足」に気づこうとする行為だと思う。

これをやっているのが「楽」というものではない。

「これが好きで,もっとやってみたくて,もっと知りたくて,不足を感じているようなもの」だ。

これは特に趣味(ホビー)的なものに限定されない。

例えば環境問題や人々の悩みを解決することに関心があるのなら,十分に仕事になってくる。もちろん人々に楽しみを提供するようなものでも。

この時,世間体を気にして「言い聞かせよう」とすると失敗する。頑張っているはずなのに,なぜか報われない気持ちになりやすくなる。

そのうち「楽」が不足する。「楽」を求めて一時の癒しを求めるようになる。
見方を変えれば,それはそれで趣味が充実してくるようになる。悪いことではまったくなく,そのおかげで生活できる人もたくさんいる。
不足した「楽」を満たしたら,大抵はまた頑張れる。

「好きなものなんてないよ」と長沢君のような顔で言う人は,まだ真剣に向き合っていないか,体験の量が足りないかだ(小学生に「夢は何ですか?」と聞いても大抵ろくな答えが返ってこないのを見ればわかるだろう)。

…と,長くなってしまうので,ここで一旦終わりにする。
好きなことを「考える」と書いたが,本当に好きなことは無意識の時にわかるものだ。無意識だから気づきにくいのがまた質が悪い。
だから「考えたり,行動したり」を繰り返す過程で気づいていくものだと思う。

振り返りが大切というのがよくわかる。

(写真: 月とカエル。写真がぼやけているが,私の未来もぼやけている。)



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