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いろいろ散らかっている。

最近はよくモノを捨てる。今は年末の大掃除の一環として少しずつ捨てている部分もあるが,実はコロナで家にいる時間が多くなってきた春ごろからやっている。「物」ではなく「モノ」と書いたのは,部屋の中にあるものに限らず,スマホのアプリや連絡先といったものも含むからである。

きっかけはよくわからないが,ある時突然,身の回りのモノが多すぎることに気が付いた。じっと部屋を見つめて視界の中に何個,物(ここでは物理的な「物」だけ)があるかを数えてみた。すると,思っていたよりもずっと多くの物があることに気が付いた。そしてそれがかなり気持ち悪く感じられたのである。

それまでまったく気にならなかったにも関わらず,なぜその時にそれが気になったのかはわからない。だが今考えてみると,それまでは意識が外に向いていたので,部屋にこもるようになって意識が内に向いたのかもしれない。これは私が都会が苦手なのと同じである。都会はモノが多すぎる。だから田舎の方が落ち着く。(実際は田舎の自然にもモノは溢れているのだが,おそらく色の種類の問題も大きいのではないかと思っている)

それ以来,毎日少しずつできる範囲でモノを捨てている。「断捨離」が流行っているが,そこまで高尚なものではなく,単純に気持ち悪さの解消のためにモノを捨てている。捨てていくと不思議なもので,もっともっととどんどん捨てていきたくなる。調子が良いときは,思い出の品も「べつに良いか」と思って捨てられる。これが本当に良いのかどうかはわからないが,捨てる時はなんだか身体が軽くなった気がする。どうしても捨てられないものは実家に送ることにしている。実家に帰ったらまた吟味する。

モノを捨てていってだんだんわかってきたのは,たしかにこれは執着心がだんだんと取れていくということである。モノ一般に対する執着心ではない。表現しにくいが,もっと広く物事に対する執着心が薄れていくような気がしている。

捨てるからといって,モノを買わなくなるわけでもない。必要なものはどうしてもあるし,洋服などは好きなのでつい買ってしまうこともある。しかし,これまでと違うのは,手離れが良くなったということである。捨てていくうちに捨てることが得意になったというべきだろうか。今はメルカリなどで手軽に売ることもできるので,手離すにもそれほどエネルギーがいらない。そして,手離して空いたスペースに,また新たなモノが入ってくるというような感じである。べつに特別なことをしているわけではなく,ようやく適正な量のモノを管理できるようになってきたと言うべきか。少なくとも普段の生活で自分の意識の届かないようなものは身の回りに置きたくないと感じている。

それもまだまだ改善の余地はあるのだが,もっと厄介なのは情報の断捨離である。趣味と仕事が混ざり合っているような感じもあり,それなりの量の情報に日々触れている。読んだり聞いたりするジャンルも様々である。だから脳内でいろんな情報が常にごちゃごちゃしており,どうにもすっきりしない。よく「書いて整理しよう」ということが言われるが,書いているうちにまた情報同士が合わさって新しいアイデアが生み出されることも多いため,書くことが逆に情報を生み出すという皮肉な結果になることもある。

だから,余計な情報を入れないということが大事なのだが,その線引きが難しい。以前の記事でインフォメーションディスタンスについて書いたが,やってみようとすると案外難しいものである(私の場合はワイドショーとはすぐに距離を取れたが,本やオーディオなどは難しい)。「そんなのは簡単だ。自分に関係のない情報は遮断してしまえばいい」という考えももちろんあるだろうが,一見関係ない情報が,意外なところで関係ある情報とつながり,より精神が豊かになる(と感じる)経験をしてしまっていると,「何かの役に立つかも?」と思って摂取してしまうのである。これはモノを捨てられない精神状態と同じである。

だが,モノを捨てるのと情報から距離を取るのとでは違う側面もある。それは,抽象化による上位概念への昇華と言ったら良いだろうか。つまり,一見関係のない情報Aと情報Bが,何らかの形で抽象化され,新たな考えを生み出すということである。「イノベーション」という言葉は「新結合」ということであるが,要するに関係ないものの組み合わせによる新たな価値創造である。モノを普段取り扱わないので,これがモノでも起こっているのかはわからない。少なくとも,私の部屋からは新たな価値は生まれそうもない。

つまり,「様々な情報を取り入れる」⇒「頭の中がカオス状態で気持ち悪いが,時に新しいアイデアを思いつく」⇒「気持ち良い」という流れが情報では起こるので,麻薬のように情報摂取をやめられないのである。また,脳内は物理空間のように制約があるわけではない。したがって,時間や金銭といった諸々の制約がなければ無限に情報を摂取できることになる。

身も蓋もないが,ここまで書いてきて情報の断捨離はあまり気にしなくても良いように思えてきた。気持ち悪さは言ってみれば,気持ち良さにつながるのに必要なプロセスなのかもしれないと,よくわからないポジティブさが湧いてきた。(詳しくは考えないが,例えば部屋を片付けた時にも気持ち良さを感じるが,そのために部屋を散らかすことはない。情報に関してはそのようなマッチポンプ的なことをしている可能性もある)。

そもそも,どんな時に気持ち悪さを抱えているのか。それは暇なときである。暇なときは頭の中でいろんな知識・考えがなんの整合性もなく浮かんでくる。その時は頭の中がカオスなので,何とも気持ち悪さを感じる。やはり秩序だっていたほうが落ち着く(性格である)。一方で,部屋で急にモノの多さに気持ち悪さを感じたのはなぜだろうか。部屋に意識が向いたからである。逆に部屋という物理空間に意識が行っていないときは,まったく物の数など数えたことはなかった。このように考えると,頭の中は雑然としているのだが,ある特定の知識ではなく情報空間全体に意識が行ってしまったときに,その雑然さを見つめることになって気持ち悪さを感じるのかもしれない。

これでなんとなく整理がついてきた。つまり,基本的に雑然さは気持ち悪い。物理空間にしろ情報空間にしろ,制約の有無はあるが,そこが散らかっているのを認識すると気持ち悪さを感じる。物理空間は片づければ良い。情報空間は情報の整理は行えるが,新たに散らかる可能性もある。ここが難しい(が,部屋も大掃除しているときは一旦荒れるので,あれに近いのかもしれない)。しかし,そもそもその空間を意識しなければ気にはならない。例えば,外に出ていれば,都会の雑然さは気になるかもしれないが,部屋の汚さは気にならない。情報空間で言えば,ある特定のトピックについて考えていれば,そのトピックの散らかり具合は気なるかもしれないが,その他の関係ない情報はあまり気にならない。どう考えても気持ち悪さは残りそうなので,諦めたのが正直なところである(身も蓋もない)。そして謎のポジティブさに助けられている。

余談だが,受験勉強はこの特定のトピック(例えば,ある教科)について知識を体系立てていく作業なので,部屋作りに近い。めんどくさがりは部屋も汚いし受験もあんまりうまくいかない。

なんだかまたよくわからなくなってきた。そもそもこの文章同様,「目的なく」情報を摂っていることも多いことが原因のように思えてきた。そう考えると,人生の目的が明確な人の方が生きやすそうに見えるのも納得がいく。受験も目的が明確であるほどうまくいく。もしかしたら普段頭の中で自由に「遊ぶ」ことが,目的を強要される社会生活におけるズレを生み出しているのを気持ち悪く感じているのかもしれない。そう思うと,「常識」や「普通」という言葉に対して一種のアレルギーのようなものを持っていることにも納得がいく。同時に,社会不適合さを感じる。

それにしてもこの文章はとっ散らかりすぎである。目的をもって書いていればと反省している。

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