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言語化から生まれるダイナミズム。

仕事の一環で英作文の添削をすることがある。

対象者のレベルは様々で,非常によく書ける生徒さんもいれば,とても苦手で,基本的な文もあやしい生徒さんもいる。

テーマに沿った自由英作文を採点するときは,何枚もやっているとあることに気付く。

得意な生徒さんは英語表現ももちろん上手なのだが,テーマに対する話題や語彙が豊富だ。自分なりの考えを述べるケースも多いし,中にはエビデンスを持ってくる気の利いた人もいる。

反対に,苦手な生徒さんは,いわゆる紋切り型の,教科書的なことを書くことが多い(問題はないが)。

もちろん英語の添削なので,特に必要がない限り,内容に深く突っ込むことはしない。赤を入れるのは基本的に英文の構成や文法,表現面などだ。

しかし心の中で思うのは,苦手な人の共通点として,興味の範囲が,得意な人の範囲に対して狭い気がするというものだ。

だから,「いろんなことに関心を持とう」となるのだが,それを言われたところで「え,どうすりゃいいの」である。


例えば私の目の前に,今アナログ時計が置いてある。これに関心を持ってみよう。

観察する。丸い。白い。シンプルなデザインだ。時間は夜。数字は大きめ。2分早い。文字盤には細長い首がついており,座ったときに目の高さと合うようにしてある。ブランドは無印(どれか気づいた人もいるかもしれない)。

と,関心を「持てば」いろいろと気づくことがある。

今はnote用に見たので,もうひと手間加えて,それを「書き出し」てみた。

しかし,じゃあ例えばこういうことを「やろう」と言われても,おそらく私の場合は3日ともたない。めんどくさいからだ。

「だからお前はダメなんだ。継続が大事だ。『GRIT』でも読めよ」と言われそうだ。(ずいぶん前だが,GRITは読んだ。70%ぐらいのところでやめてしまったが。)


「いろんなことに関心を持とう」なのだが,無理に関心を持とうとすると挫折しやすいことが分かった。

また,負けず嫌いからか罪悪感からかはわからないが,そういう人は『GRIT』を買いやすいこともわかった(読み通さないことも分かった。全部私のことだが)。


話がまた脱線して申し訳ないが,そもそもなぜ「関心を持とう」だったのか。

これは,英作文が苦手な生徒さんが,出来事の関心の範囲が狭いのではないかという疑問からだが,ではなぜそれが問題なのか。

もちろん,他人の人生なので,私がとやかく言うことではない。それぞれの世界で生きていけば良い。

が,英作文がうまくなりたいということに限定した場合,その前に,そもそもこの人は「書くことがないのではないか」と思う。

英作文の上達においては,単なる英語表現上の問題だけではなく,そこが問題になることも多い。

さらにこの問題の根っこは,「言葉を持っていない」ということにある場合も多い。


苦手な生徒さんと話をしてみると,非常に楽しく話をしてくれる人もたくさんいる。「世の中に興味がありません」というような感じは全然しない。

しかし,上のような問題意識をもって話を聞いてみると気づくのが,「語彙が少ない」ということだ。

日本語でも語彙が少ないのだから,英語でも語彙が少ないのはある意味で当然である(ちなみに帰国子女ではない)。

それは「世の中への関心が薄い」ということではなく(当然その場合もあるだろうが),「言語化する作業をしていない」ことが問題なのではないかと思う。


「やばい」などの便利ワードも豊富にある。若者はクリエイティブだ。

余談だが,昔,言語系の論文を何気なく漁っていたら,「やばい」には,

①マイナスの意味:「やばい,宿題やってない!」
②プラスの意味:「あの映画マジやばかったよね!」
③絶対値的意味:「雨がやばい降ってる…」

と3つの意味に分類できるというものがあった。

こういうのは言葉の「節約」なので,個人的には非常にクリエイティブだと思う。(余談の余談だが,若者が使う「ワンチャン」を始めて聞いた時,謎の中国人ワン・チャンの話を急に始めたと思いびっくりした…)

一方で,もうお分かりだと思うが,自由英作文課題のような,自分の意見を「豊富な」語彙で表現しろと言われるときには不利になる。

だから根本的に「治療」したければ,「とにかく日本語でいいから,自分の普段やっていることを言語化しよう」ということになる。

そしてそれを少しでも英語に変換する習慣を付けられれば,おそらくどんどん上達していくだろう。

その証拠というわけではないが,その苦手な生徒さんの好きなことを事前に聞いて,わざとそのテーマに関連する課題を出してみたことがある。

結果としては,関心のあるテーマと,関心のないテーマとでは,書く分量も,スピードも,語彙の豊富さも全然違った。関心のあるテーマでは,やはり「言葉を持っている」のである(スペルは全然違ったり,文法ミスは相変わらずだったが)。

本人は「書いていて楽しかった」と言っていた。

もちろん,これがすべてではないのだが,そういうこともあるということである。


寡黙な人でも,自分の趣味については饒舌になったりする。あふれる熱量がそうさせるということももちろんあるだろうが,それを具体的に表現する手段としての「言葉」を持っているのだと思う。

それは日々触れて,考える中で培ったものだろうと思う。


これを違う角度から見てみる。

私たちは「話す」コミュニケ―ションで,相手が関心があるか,理解しているかなどを判断してしまうことが多い。

しかし,もしかしたらその人は「言語化」をしていないだけで,もしかしたら自分よりも多くのことを「感じて」いるのかもしれないとも思う。

子どもは言語の観点から未発達の部分が大きいが,時々その感性に驚かされるのはそういう部分も関係しているかもしれない。

そういう人から感性を言語レベルにまで引っ張り上げる(下げる?)には,いろんな角度から質問してみる。

質問されて,初めて言語の部分が動き出す。必要とされない限り,脳は「省エネ」にしている(いざという時の余力を残している。私の課題は「いざ」ではないのだ...)。

必要と認識したところから,その人の関心が動き出す(かもしれない)。

「必要は発明の母」と言われるが,ここでもそれが当てはまる。


ちょうど英作文の添削の時期だったので,それをやっていたらこんなところまで来てしまった。

「必要」なものに遭遇するには,とにかくいろいろ動いてみるしかない。

動けばフィードバックがあるので,また動きが生まれる。そうすると,段々と生活がダイナミック(動的)になってくる。

人は動くものに注意が行く。

文章も同じで,ダイナミックな文章は人を惹きつけるのだと思う。
(静的な文章も,なかなか寝付けない時には役に立つ)

(写真はまたアジサイ。花の人生(花生?)はダイナミックだ。少しは見習いたい。)

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