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【エッセイ】「好きなタイプ」がわからない。

「好きなタイプはどんな人ですか?」

唐突にそう聞かれて,言葉に詰まってしまった。
そんな話,もう何年もしておらず,振り返っても自分がどのような人が好きなのかよくわかっていない。

フィーリング,タイミング,ハプニングという言葉で恋愛を表した言葉も聞いたことがあるが,うまいことまとめるなと思う。
これまでの何度かの恋愛はそれに任せてきたように思う。
恋愛で私が主導権を取ったことはない。
恋愛に限らないが。

良い機会だから改めて好きなタイプってどんな人だろうと考えてみた。
相手は「そんな重い話ではない」と半分呆れていた。
私に聞いたのが間違いだ。反省してほしい。
さらに言えば気の利いた答えが返ってくるようなこともない。学んでほしい。

少し考えても出てこないので,話題は違う方向へと切り替わっていった。


帰宅しても,先の質問がずっと頭に残っている。
もちろん,いろいろと部分的に挙げることはできたが,その総体のような人がいるはずがない。
むしろそれは,挙げるほど,段々と自分に近づいていっているような気もする。
かなり都合の良いことを考えるなという自省と,付き合っても何もおもしろくないだろうなという確信だけが残った。

なぜつまらないかは当たり前で,自分のことはわかっている(つもり)だからだ。
先がわかっていることを何年も続けるのはおもしろくない。

だからこの逆を取れば,「わからない」人といるのがおもしろいということになる。
自分と違う部分が多い方が,恋愛をするには良いようだ。

とはいえ,わからない部分が多すぎても難しい。
最低限,ヒトであることはわかるが,それ以外のことがあまりにも自分と違っていて,まったく理解できなければ,浮かぶのは恐怖である。


思考はいつものようにくだらない方向に向かっていったが,そこで「一目ぼれ」が浮かんできた。

相手の内面はよくわかっておらず,ただ相手を一目見ただけで恋に落ちてしまうから一目ぼれというが,この経験が,先の「わからないから楽しい」の限界点ではないか思う。

一目ぼれをしたときのことを思い出す。
その時はまったく相手のことをわかっていないのに,見た目だけで「この人のために生きよう」と既に勝手に決心をしている。

相手からすれば甚だ迷惑な話だろうが,こちらはもう舞い上がっている。
勝手に天高く舞い上がっていく私を必死で地に戻そうと周囲は気を遣ってくれるが,それまで出たこともない多幸感とエネルギーで,押さえつけようとする手を振り払っていく。

周辺視野は狭まり,聞く耳はどぶに捨てられ,ふわっと香る洗剤の残り香だけを求めて徘徊していく。それでもバレないようになんとか行動する姿はゾンビよりは慎ましい。


この体験を思い出していると、あることに気づいた。(一目ぼれしている相手がタイプなんじゃないの?という正論はこの際置いておく。)

一目ぼれをしたその瞬間,相手から最大限の愛をすでに受け取っているということだ。

というのは,一目ぼれている本人はその時気づかないことが多いのだが,相手によって,自分の中にある愛(異論があるかもしれないが,「愛」としておく)が目いっぱい引き出されている。

これはその相手がいなければ成立しないのだから,その愛を引き出したのは相手だと言ってよいと思う。


こう思ったときに,「この人のために生きよう」という姿勢のままでいるのは危うい。

それは,その相手が近くにいるかいないかで,自分の気分や感情が左右されてしまうからだ。結果として,行動がブレてくる。相手に依存している。

「こんなに好きなのに!」というときはこれにハマっているのかもしれない。

すでに自分の中にある愛は相手によって引き出されている。
それまでに感じたことがなかった(感じても客観視できていなかった)が,「自分の中にはこれほどの愛があったのか!」と気づいたときに,相手がすでに目いっぱいの愛をくれていることを思う。

そうすると,自分の感情を引き出してくれた相手に感じるのは,「感謝」だろうと思う。

感謝から出てくるのは「与える」行動であり,それが細かな気遣いなどにつながってくる。

同じ一目ぼれから始まる恋だが,一旦自分でその感情を引き受けて,相手に依存せず主体的であろうとすると,ベクトルがtakeからgiveに変わる。


以前に,noteでも度々登場する飲み屋のおじさんが,
「『恋』と『愛』の違いわかる?恋は自分のことを思うこと。愛は相手のことを思うこと。例えば,相手が待ち合わせに遅刻してきたとする。
恋は「なんで遅れるんだよ!」と自分本位だが,愛は「大丈夫かな?なんかあったのかな?」って他人本位なんだよ」
と言っていた。

普段は酔っぱらってゾンビのようになっているが,珍しく気の利いたことを言うなと感心した。言った後はやはりゾンビになっていた。
多少気の利くゾンビだなと見直した。


また,赤ちゃんが生まれてくるときを考えてもいいかもしれない。

まだ生まれてもおらず,姿も見ていないのに,たいていの場合は愛することが決まっている。これはもはや一目ぼれですらない。一目ぼれは限界値ではなかった。
だから母の愛は偉大なのだ。


あるいは,人でなくても良い。
「ワクワクすることをしよう」といった場合も,考えようによっては,ワクワクした時点で,すでに現象の恩恵は受け取っており,あとは感謝とともに返すだけである。
ある種の使命感を持って事に当たっている人たちの精神構造は,こういうところにヒントがあるのかもしれない。

パチンコや競馬が悪いとは言わないが,同じ簡単にやめられないぐらいの「ワクワク」でも,ベクトルが違う。


私は「感じることが先,現象が後」と考える方がしっくりくるタイプなので,以上のように考えた方が落ち着くだけなのかもしれないが。

何でもない質問のようだったが,少し立ち止まって考えてみてよかった。
そして結論として,こういうことが言えるかもしれない。

万人に愛されることは無理だが,あなたも必ず,誰かを無条件に幸せにしている。


人一人の存在は本当に偉大ということに気づき,このことを,好きなタイプを聞いてきた人に報告しようと思ったが,連絡先を知らなかった。たぶん知らなくて良かった。

(画像はCanvaで作成(「無償の愛」)。AIは「あい」と読めるが,自分で愛という人間が信用ならないように,愛情についてはAIが最も信用ならない。)

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