古文を学ぶ意義

こんばんは。べんとうです。

前回の「数学を学ぶ意義」と前半は重複します。


----(以下前回の内容)----

僕は勉強を好きにさせる術は2つあると思っています。

ひとつは「『できる』を実感させる」

もうひとつは「『意義』を理解させる」だと思います。

僕はこれまで、授業動画を通して「できる」を実感できるような動画づくりに励んできました。

しかし、僕、いや他の教育系YouTuberすべてに足りないものが、「『意義』を理解させる能力」であると感じました。

まず、概して勉強する目的とは、「人がより人たるため」だと考えます。

もう少し粒感を出して言うなら、「言語能力を高めるため」です。

「言語能力を高めるため」というと、ロマンが無いように感じますが、それはそもそもの「言語」というものへのイメージが味気ないからにすぎません。

本来、言語を通して人間は、様々なことを直接体験することなく、知り楽しむことができるのです。

言語は最大のショートカットツールです。

アニメや漫画ができる前は、小説一本でした。技術がまだ発達しない頃、既に文字という媒体を通して仮想現実を間接体験できる場はもうできていたのです。

言語を通せば、見れないものも見ることができるようになります。

例えば、水素原子。その中の原子核。それを構成する素粒子などなど...

実際に視覚の情報で以て、これらを認識したことがある人がいるでしょうか。

私たちは、本来知覚できないものすら言語を介して認識してしまうことができてしまうのです。

以上は、「言語はある刺激の代替物となりえる」という話です。

すなわち、「りんご」と言われれば、目の前にりんごが無くても「りんご」を想起することができるし、「泳ぐ」と言われれば、目の前で泳ぐ人がいまいが、自分自身が微動だにしていまいが、「泳ぐ」こと自体を想起できるわけです。

しかし、言語のすばらしさはここにとどまりません。

例えば、助動詞や助詞、接続詞について考えてみます。

「りんご」がりんごそのものの代替物、「美しい」が美しい物の有する共通の概念なのであれば、「しかし」は何を示すのでしょうか。

受身・尊敬の助動詞「れる」は何の代わりを果たす単語なのでしょうか。

そう、そもそも言語の中で閉じている単語があるのです。これらが、私たちの論理的思考を実現してくれるわけです。

これが、「見えないものを見るための言語」の際たる役割でしょう。

人を知りたければ、言語を知る、これに尽きます。


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さて、これを踏まえて古文を学ぶ意味について説明していきます。

ここまで言葉のすばらしさについて述べてきましたが、言葉にはネガティブな側面もあります。

言葉は時にバイアスや心理的な非柔軟性を生み出すことがあります。


「嫌われるよ?そんなことしてたら」

このフレーズも、子音と母音という、音素の集まりに過ぎません。しかし、チャンクとなり文となり、文章となったその時、この言葉はその受け手の行動を心理的に制限する働きを持つようになります。


「俺、センスないから古文読めないんだよね」

このフレーズも、接続助詞「から」が順接の働きをしていますが、ここに何も論理的なつながりはありません。

XだからYというのは、時に論理的な命題を示しますが、多くの場合は単なる視野の狭まり、思考の固体化を招くに過ぎないのです。


しかし、同時に、言葉を発する人の心理的非柔軟な状態を外から観察することができるというメリットもあります。

例えば、「俺は何もうまくいかない」という言葉をAさんが発していたとすると、我々はAさんが過度なストレス状態に陥っていて、視野が酷く狭まっていることが容易にわかります。


つまり、言葉を見たり聞いたりすれば、その言葉を発する人の心の内、頭の中身がわかる訳ですね。


さて、話は変わりますが、時は江戸時代です。

奢侈禁止令(しゃしきんしれい)という幕府の命令により、庶民の服装が「鼠色・茶色・藍色」とその周辺色に制限されたそうです。

(参考:岩崎純一[2009] 音に色が見える世界——「共感覚」とは何か)


実は、この3色の区分は共感覚者の見ている色の分布と非常に似ているそうです。

すなわち、非共感覚者共感覚者、それぞれに「これらの色を自分なりに名前を付け直してください」とお願いしたところ、非共感覚者の付けた色の名前は、日本語によるラベリングの効果が非常に大きかったのに対し、共感覚者の付けた色の名前は、江戸時代のラベリングと同様の「鼠色・茶色・藍色」という分布をしていたそうです。


さて、ここで「江戸時代」という時代に注目します。

皆さんご存知の通り、江戸時代は明治の一つ前の時代区分です。すなわち、まだ欧化政策などというものはありませんでした。

この頃は西洋の文化はまだ取り入れられてなかったのです。


さて、西洋の文化は、非常に不連続なものを美とする印象です。

文化心理学の領域では、西洋の自己観を「相互独立的自己観」と呼んでいます。他と自分が不連続であるとする見方ともいえるでしょう。

確かに、イギリス(西洋)が支配したアメリカ、オーストラリアに見られる英語圏でも同様で、主語「I」の省略がめったに起きません。

主語を省略する時、それは命令文となります(日記文で省略が起きることもあるそうですが)。

対して日本語では、主語「私」を省略することが一般的です。この違いはどこにあるのでしょう。


そもそも言葉に「私、I」を登場させている時点で、話者の頭の中には「私」という俯瞰的な・第三者的な像が浮かんでいます。しかし、もしも「私、I」を省略すると、話者の頭の中に「私」という像は浮かびません。むしろ、私というレンズを通した世界を前提にするはずです。

ここでこのブログを読んでくださっている方に質問を投げかけます。主観的でいいです。

主語「I」を省略しない場合とする場合で、どちらが言語的ですか?


すみません、この質問の投げ方は下手糞ですね。すこし質問を変えます。


主語「I」を省略しない場合とする場合で、どちらが不連続ですか?


主語「I」を明記した方が、「私」と「他者」との間に隔たりを感じるのは私だけでしょうか。

むしろ、「I」を省略すると、「私」というレンズを通した世界が前提になると共に、「私」と「外界」との明確な境界線は消滅しているように思えます。

車両感覚について想像してほしいのですが、私たちは車を運転する時、左前がどの位置にあるのかが明確にわかることはありません。

ある程度の勘を以て、車両「感覚」としています。


一人称の省略が起きた時の文章では、このような心的なイメージが生起していると考えられるのです。実際、私たちは視覚で自分自身の体の下の方を見ることができますが、その空間把握能力も乏しいものです。

時折、私たちはタンスに足の小指をぶつけるでしょう。私たちの体の「車両感覚」が身についていない証拠です。

この限りで言えば、私たちは、「自分」と「外界」との明確な境界線を認識できていないとも言えるのです。


寧ろ、パーソナルスペースのような、自分を中心とした半径1 mくらいは、「私」と認識されてしまうのかもしれません。


すなわち、「私」を言葉の中で明記しない、車両感覚が不明になる表現では、「私」と「外界」との明確な線引きがなくなる=連続的になるということなのですね。


さて、もう一度先ほどの下手糞な質問を皆さんに投げかけたいと思います。

「主語「I」を省略しない場合とする場合で、どちらが言語的ですか?」


個人的には、主語を明記した方が言語的であると考えます。

すなわち、不連続な方が言語的であると。


例えば、星座が良い例でしょう。星の分布は本来連続的です。どこを切り取るなどという発想は恣意的に思えます。しかし、「夏の大三角」という言葉でラベリングされた3つの星は、いつしか1つの塊を成すわけです。

例えば、「りんご」と「なし」が不連続である所以も言葉にあるでしょう。

言語の中には、「蝶」と「蛾」の違いを区別しないものもあります。これらを区別することを辞めた瞬間、これらは連続的になり、線引きが無くなります。


「犬」と「オオカミ」もそうですね。私は「いやいや、一緒やん」とつっこみを入れたくなります。この2者の区別も、結局のところ言語無しにはあり得ないことです。


さて、言語は不連続で、時には人の行動や認知に制限を加える諸刃の剣です。

しかし、欧化政策が始まる以前の私たちが「古文」と呼んでいる言語は、西洋の不連続的なものの見方が混入しておらず、より連続的・自然的なのではないかと考えられます。

その最たる例が、先ほどの「鼠色・茶色・藍色」という分布です。共感覚者の見ている世界は言語の干渉がより少ないと思われます。先ほど紹介した本の著者、岩崎純一さんも、自分が言葉を有する前に「共感覚」で思考をしていたということを述べられていました。

科学的な根拠ではありませんが、ある一説によると、私たちは皆生まれた瞬間は共感覚者であったと言います。

とにかく、「共感覚的なものの見方」が言語という不連続なものの混入が少ないということは確かとしていいでしょう。


言語によって植え付けられたバイアスを回避して世界を見る一つの手段が、古文を読むことだと思います。

古文の中には、恋愛の話や戦の話が度々出てきます。言語というバイアスが無くても、現代の私たちと共有できる感覚があることがわかりますね。

しかし、時には共感できないものもあります。これは、昔の人々が私たちよりもより本能的であったからでしょう。私たちは理性的にものを考える傾向があるので、親和性が低いのです。


昔のブログで「言語は共感覚の圧縮形式だ」と述べたことがあると思いますが、もしそうならば、古文は圧縮前の奇跡の言語と呼んでもいいでしょう。


しかも、古文の文法の方が今の文法よりも斉一的です。自然に発生した言語がここまで整うということにも神秘性を感じるでしょう。


更には、単語の派生を見るのも面白いです。

例えば、「悲しい」と「かわいい」という感情がどこかで共通しているから、派生したという考えが可能です。

「あやし」が「貧しい」という訳になるのも、人の偏見やバイアスを反映していると考えられ、根本の本能を見破る手立てにもなりそうです。


さて、ここまで長々とお話をしてきましたが、私の過去のYouTubeでのコメントを引用して終わりにします。視聴者の「古文なんて学んで何の意味があるんだ」というコメントに対する返信です。

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国語教育のひとつの目的に愛国心を育てることがあります。
直接的に言うと洗脳チックに聞こえてしまうかもしれませんが、どう考えても英語より汎用性が低い日本語で、幸福度ランキング62位の日本で過ごすにあたって、納税する先が「自分の嫌いな国」だったら生きづらいですからね。
だからこそ、大学に進学し、高い収入を得る人こそ、古文漢文を勉強しなきゃなのかなと思います。
ほかにも色々考えるところはありますけどね。

以上、マジレスでした、さーせん、笑

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これは、自分で見てもまあまあ筋の通った理由になると思います。


確かに古文以上に学ぶ意義のある科目があるのかもしれませんが、学校教育という場では「学ぶ人も学びたがらない科目」を設けるのも一つだと思うのです。

心理学や哲学は、皆が興味を持つので多少学ぶこともあります。それに、ビジネス書の多くで心理学や哲学の知見が含まれています。

自ずと触れるのです。


しかし、古文は高校で勉強させておかないと、誰も一生勉強できません。人生が長いからこその教養ともいえるかもしれませんね。

問題は、こういった意義を熱く語ってくれる先生が少ないことです。私もここで熱く語っておりますが、そういう私が古文をガッツリ勉強しているのかというと、そうでもありません。

だからこそ、私自身、もう少し勉強を重ねて、こういう主張をしていきたい限りです。



急いで書いたので、ちょこちょこ文章が変かもしれませんが、お許しください。


ここまで見ていただいてありがとうございました。かなりガチめに感謝です。




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