僕ら、全員、共感覚者?!
こんばんは。べんとうです。
ビールを飲んだ後なので、文章がやや拙くなるかもしれませんが、我慢して見てください。
僕のブログを「読みやすい!」と言ってくれる人が割と多くて嬉しいな~と感じております。
でも、それは、受け手側(つまりあなたたち)の学力偏差値が高いからだと思います。決してわかりやすい文章ではありませんので、自分をほめてあげてください。
見ての通り、太字で誤魔化しているだけですよ。
まあ、太字だから斜め読みしても大意はつかめますよね。
僕のブログは斜め読みをした方が良いです。なぜなら、今回のブログは2000字以上あります。
普通に普段提出しているレポートよりクオリティが高い。
さて、今日は「共感覚」についての本を読んだのでシェアしたいと思います。
(音に色が見える世界――「共感覚」とは何か 岩崎純一さん著)
「共感覚」という言葉自体は皆さん、なんとなくわかりますよね?
例えば、赤色という目から入る情報に対して、特定の味を感じたりするなど、五感が入り混じって認知(知覚)されることです。
これは、比喩じゃないそうですよ。
例えば、非共感覚者でも桜を見て
「ああ、この桜はいい曲がつくれそうだ」
と思うことも考えられますが、共感覚者は、そもそも情報が入力された段階で音が聞こえてくるそうです。
このブログを書くに至ったきっかけの本の著者である岩崎さんは、言語を習得する前に自分が「思考」をしていたことを覚えているそうです。
僕らの直感では、「言語で思考する」というのが自然だと思います(僕も実際言語心理学の本で「言語(内言)で思考をする」みたいなこと読んだ気がするしね)。
岩崎さん自身がどのように思考をしていたかというと、共感覚を利用していたそうです。(言葉では表せないって言ってた)
確かに、筋は通っているなと感じたわけでございます。
なぜかというと、僕なりの仮説で、五感はそれぞれn次元空間で成立しているというものがあって、それと適合していたからです。
まず視覚は、いわずもがな2次元平面ですね。
立体視とか言いますけど、あれ気休めじゃないですか。
別にYouTubeを見ているときも、立体的な認知するじゃないですか。
網膜に映し出されるものは問答無用で2次元です。異論は認めます。
次に聴覚。これは1次元だ。
スピーカーとかヘッドホンに詳しい人なら、「ステレオ」とか「サラウンド」って聞いたことがあると思いますけど、
関係ないです。
「モノラル」たるもので聞いたときとの違いは僕にはわかりませんよ。
で、味覚はわからんけど、5次元なんじゃないかな。
だって、味覚って、甘味・酸味・苦味・塩味・旨味 で成立するそうですから、この世の森羅万象の食べ物を5次元ベクトルで記述することができますじゃないですか。
あと、嗅覚と触覚は省きます。よくわからんから。
もし、これらが複合的に知覚される共感覚者にとってみれば、入力される情報はn次元なわけです。
同時に、僕は言語心理学をこの夏休みで勉強しているのですが、言語心理学の理論によると、どうやら言語の理解は空間的・準空間的なんですよ。
皆さんは、「活性化拡散モデル」という心理学のモデルを知っているでしょうか?
簡単に言うと、脳内には言葉と言葉の結びつきを示した地図のようなものがあるらしいのです。あ、マインドマップって言えばわかる人もいるかも。
例えば、「スズメ」と「鳥」は結びつきが強いので、地図上では近い位置に分布しています。
なので、「スズメ」と聞けば、「鳥」に関連するニューロンも拡散的に活性化しますよ、って話。
しかし、これが単に二次元の平面で記憶されているとは言い難い。
より複合的に絡み合って出来ているものだと思うのです。
しかも、文法処理に至っては、空間処理を担う脳部位が損傷を受けると、不可能になります。
しかし、この文法処理が視覚的にわかるような低次の空間処理で行われているとは考えられません。もっと高次の段階にある、我々の理解が届かないようなn次元の領域に及んでいると思うのです。
こういう漠然とした考えを持っていたので、「共感覚で思考する」というのは画期的でした。
ちなみにとある説によると、僕たちは実は小さい頃は共感覚を持っていたそうですよ。要するに、感覚が分化していなかったということだそう。
じゃあ、ワンチャン僕らも岩崎さんと同様に共感覚で思考していたかもしれないよね?!
というか、よく考えれば、言葉って共感覚の代わりになっていると思いませんか?
「桜」と書けばそこには、
・桜そのものの視覚情報
・お花見の時の触覚情報
・(ワンチャン)さくらもちの味覚情報
・桜の木の香りの嗅覚情報
・桜というタイトルの音楽という聴覚情報
これらが詰め込まれているような気がしないでもない。
なんだか、最近、言葉というものはzip形式のような圧縮手段のように思えてきました。
非圧縮の形式が共感覚で、圧縮した形が言語なのではないかと。
前回のブログでも書きましたが(あ、別に読み返さなくてもいいです)、
(a) 私は、ショートケーキが好きだ
(b) ショートケーキが好きだ
の決定的な違いは、(a)では、前意識的に脳の奥底で、暗く、そして微かに脆く、極めてぼんやりした「私」という影が認められるということを述べました。
(bの文章はそもそも文中に「私」が無いんだから、「私」という影なんて存在しません)
ここまでぼんやりと、「言われてみればわかるかも」くらいの曖昧な心像で我々は文中の「私」を認識しているのです。
そりゃ、脳のメモリも節約できますわな。
言語というものは、圧縮形式です。
たしかに、「百聞は一見に如かず」ということわざが昔からありますよね。
これは「お前の受け取ってるそれは、単なる圧縮ファイルやから、解凍ファイルを実際見に行った方がいいよ」っていうメッセージだと思います。
それにしても、接続詞や助詞はどのように記憶されているんだ、、、!
n次元空間ですら示せない次元にあるんじゃないか?!
だって、いくら共感覚って言ったって、「だから」とか「しかし」の"ルー"をつくるための"スパイス"なんてこの世に無いよ!!
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