「だから」と「しかし」の違い

接続詞ってどうやって頭の中で記憶されていると思いますか?

名詞とか形容詞、動詞のような内容語ならイメージしやすいので僕らも直感でわかります。多分、古典的条件づけで結びついているはずですね。

俗な言い方をすると、内容語は「パブロフの犬」的に記憶されているはずだということです。丁度、犬がエサを食べると同時にメトロノームを鳴らすことを習慣にすると、犬の頭の中で勝手にエサとメトロノームがつながって、メトロノームが鳴っただけでヨダレが出るって言うアレですね。

簡単な例として「りんご」を挙げましょう。

僕らはりんごそのものの視覚や触覚、味覚の平均値をすでに記憶していて、その記憶と、「RINGO」という音声情報がパブロフの犬のように結びついているだけだと思いませんか。

もし、そうだとすると、「しかし」「だから」などの接続詞、「を」「に」「が」などの後置詞(助詞や助動詞)、これらを総称した機能語をどう記憶しているか気になりませんか?

当然ですが、これらの言葉は「言葉の中」だけで閉じています

言語外に実体として存在するものではありません。


言葉は、五感や身体運動として記憶されているものが非常に多いので、これら機能語の謎は深まるばかりです。


そこで、「だから」という単語を考えると、これはある種、視点の動きや体中を通る血流を示しているように思えます。

「僕はクズだから、勉強できない」

「コロナだから、就活できない」

ここで使われている「だから」に、論理演算子的で、極めてロジカルな因果関係を示す機能が果たしてあるでしょうか。

そう、「だから」には「視野を狭める」という働き以外にないのです。

AだからB」とは「Aという事象によって、視野が狭まり、丁度Bが見えている」ってそれだけなのですよ。


「雨が降った。だから、ピクニックは中止にした。」

この文章を見てもらってわかるように、ここに一対一の斉一的な因果関係がある訳ではありません。なぜなら、雨が降ってもピクニックは強行できます。100%そこに成立する因果関係は無くて、強いて言えば傾向くらいしかないのです。


「今日は日曜日だ。だから部屋を片付けよう。」

これを見ても、「今日が日曜日である」という事象が単に視野を狭めた結果として、「部屋を片付ける」という意志が生まれているにすぎないことがわかりますね。


「今日は日曜日だ。しかし部屋を片付けよう。」

この場合だと、この話者が「今日が日曜日である」という事象によって視野が狭められたが、その視野の狭まりから脱出しようという視線の動きを感じます。

きっと、そもそもは話者の中に「部屋を片付ける=平日」「日曜日=ダラダラするための日」という当然のif-thenルールを持っていたに違いありません。


事実、英語には「にも関わらず」という意味で"nonetheless"という単語があります。意味的にはhoweverと一緒ですね。

このnonethelessを分解すると、「none(ないんだよ)」「the(その分)」「less(減るものが)」って意味ですよね。

「その分減らない」——これが逆接確定条件のコアです。


つまり、「視野が狭まったんだけど、いや、減らない。狭まった視野という狭き空間から、狭まる前に存在していた視野に脱出しよう。」という視線の意志を生み出すもの。これこそが、機能語としての逆接でしょう。


だから、論理的なんかじゃありません。ただ単に狭まった視野の中に入ると、外に出るかの違いなわけです。

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