僕、今日誕生日だったらしいわ

さあ、誕生日の23:40からブログを書き始めております。

べんとうと申します。


誕生日以内に書き終わりたい。


カサニマロでも、「受験勉強は最終的には幸福のために」ということを常々主張している。

まるで、「幸福」を人生の最終目標とするような言いようである。


僕も心理学を3年と少しばかりかじり続けてきたわけだが、幸福というのは案外非科学的なところから生まれるように感じる。


つまるところ、心理学などと言う統計的な処理に留まらないような「豊かさ」みたいなものがあるように思えてならないのだ。


端的に言ってしまおう。

部屋がきれいで、感受性の豊かな人は幸せにになる。


所謂、平成的な意味での「女性的な暮らし」というのが、豊かさ=幸福をもたらすのではないかと考えるわけだ。


本当は男性の方が幸せホルモンと言われるセロトニンの分泌量が多い。

女性の方がそれの分泌量は少なく、周期性があり不安定だ。


しかし、汚い部屋で感受性の乏しいまま死んで行くことを許容してしまうのは、あまり幸せの得方として望ましくないと思う。


人間が幸福感を得るのは、他人の比較以外の何でもない。

年収が高いと幸福と言うのは、「なんでも買えるから」ではない。

もし、人間を「物欲の塊」と仮定するならば、物欲を満たすための「お金」というものが幸せの唯一たる源になる。


しかし、事実は違う。

人間の欲の中に占める、物欲はごくごくわずかな部分である。


ではなぜ高年収が幸福かと言えば、他人との比較が無意識的に行われているからだ。

単純に考えて、年収はその人の「資産価値」、俗に言えば「すごさ」のバロメータとなるからだ。


しかし、「俺はすごい」とか「俺はすごくない」という主観的絶対的評価に思える雑念は、実は間接的比較表現である。


頭の中に、ふわっとでもいいから「すごさの平均」というのを置き、この基準からどの程度離れた位置にあるかという認知処理の上での言語表現である限り、上記の雑念は比較表現である。


しかし、「平均」というのが仮定できるのは、年収や成績、その他数字で表せられるような一元的なものだけである。


感受性と言う名の心のアンテナが乏しい人は、できるだけ電力を節約するかの如く、物事を一元的に捉えようとする。

もしくは、平面的に理解が可能な、二元的な解釈を施そうとする。


二元的解釈を施したときも、原点からの距離(絶対値)のようなものを心的に計算することで、なんとなくの総合得点が無意識で算出できる


三次元的になると、その絶対値の算出が空間的処理では行えなくなるから、無意識的な比較には至らない


つまり、多元的に考えれば考えるほど、空間的処理による絶対値の算出が困難になり、自動的・無意識的な他者との比較行わなくなる

むしろ、その感性の豊かさが、目に映る世の中を色鮮やかにし、幸福感を増す。


私は数学を学ぶ意義を、この無意識的な認知処理、原初的な空間的処理から超え出た認知を可能にすることと謳うが、それを裏返しにすれば多元的なものの算出困難性による幸福への道となる。


あ、誕生日過ぎた。

22歳になりました。

今年もよろしくお願いします。

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