抱腹の寝坊〜日刊弁慶2020.7.29

明日はYJとビートを作る。昨日も作ったから今週2回目。

火曜日は朝から作っていた。「9:30にしよう、朝活!」と彼から連絡が入った。僕も朝方なので、同意した。朝9時半ね。

さて、彼は寝坊した。10:30から始めることになった。

明日は10:00から作ることになっている。怒りに燃える僕は、報復の寝坊をかまそうと企画している。


嘘だ。友達が寝坊したくらいで怒る狭量な人間じゃない。自分の結婚式に寝坊されても多分許す。「報復の寝坊」って俗悪の塊みたいだなぁと物思いに耽っていただけだ。

そして僕の脳内ではホウフクが誤変換を起こし、腹を抱えることになった。無論、抱腹とは抱腹絶倒の抱腹である。腹痛に苦しんで腹を抱える、というときに抱腹という熟語を使っているのを見たことがない。わざわざ辞書を引くには及ばないが、きっと語義的にも、そういう用法はないと思う。「あまりの腹痛に抱腹した。」「君はドMか。」

抱腹(=爆笑)しながら寝坊、どころか、起床したことがある人はいるだろうか?僕はない。なぜだろう?悪夢で目覚めることはあるのに。射精で目覚めることはあるのに。僕にはユーモアのセンスが致命的に欠けていて、夢の中でもそれが発揮されることはないのだろうか?名誉と慰めのためにも、別の仮説を立てたい。

「笑いというのは、予測できないところからやってくる」

チャップリンの名言である。僕はこれを支持したい、ひとまず。(「ひとまず」という言葉が、「マズい」を連想させること、「人妻」と音の上ではアナグラムになっていることから、不倫関係を連想させる、という有名な日本語学の研究はここでは措いておこう。あとで詳しく触れる)。

笑いは予測できない。意表を突かれるのが面白いのだ。芸人のコントの筋が完璧に予測できたら面白くないだろう。そういうのを興醒めというのだ(興冷めだと思っていたが、steve jobsに助けられた。good job.)。とすれば、他者なしには笑いは起こり得ない。人間が社会を作っていく上で、予測できない他者に「ウケる」のは必須スキルなのかもしれない。さもなければ、危機感や不安感の方が優ってしまう。複雑で多様な社会を形成する動物(ホモ=なんちゃら)としての要件として、「ウケる」能力が備わっているのかもしれない。実際、笑い過ぎて吐きそう、という経験は誰もがしたことがあるだろう。吐くというのは、異物を体外に排出する行為である。笑いは異物との交流なのだ。

ところが、我々は「思い出し笑い」や「独り笑い」をする。殊に前者は予測不能どころか、完全に知っている話だ。あるいは「ギャグ」がある。毎回同じネタにもかかわらず笑ってしまう。

おっと、チャップリンがわずか1段落で論破されてしまった。心配ご無用、先の名言はチャップリンの発言ではない。誰の発言でもない。僕が勝手に言っただけだ。そして、この段落で意表を突かれたあなたは、特に笑うこともなくこの文章を読み終えようとしている。明日も抱腹の寝坊をすることはないだろう、という奇妙な確信だけが私からの置き土産だ。「どうか、いい夢を。」

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