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ex.Gold Fish 01

 どうかしている、と俺は思っている。
 メリークリスマスなんて糞食らえ。クリスマスの夜に俺は正装をして高層ホテルの最上階のレストランで落とした照明とテーブルの上のキャンドルと階下に広がる夜景の光でメシを食っている。一皿一皿もったいぶって出てくる料理の味なんぞわからない。黒いカクテルドレスの女性がホールの真ん中のグランドピアノの椅子に座り、静かにクリスマスソングを弾き始めた。
 俺はさっきから、この状況に怖気が立っている。
 クリスマスにホテルのディナー。なにも不思議なことはないと思うかもしれない。けど、俺達の姿はここに不似合い過ぎた。なぜなら、俺は、俺達はまだどちらも十六才の高校生だった。
「綺麗ね、セージくん」
 そう、自分の目の前に座った連れが言うから、俺はそちらに視線を向けなくてはいけなくなった。さっきから俺が外の夜景ばかり見ているので、そんな言葉をかけてきたんだろうと思う。ご愁傷様、あんたの顔を見たくなかっただけなんだけど。
「素敵ね。わたしね、今日のために新しくドレスを買ったの」
 ああそうですか。ドレス、ドレスね。その山ほどビーズみたいなものがついたそれね。恐ろしいから値段は言わないでクダサイネ。そういえば彼女が、出会ってからこっち、二度同じ服を俺の前に着てきたことはなかったように思う。
 向かいに座った女は笑った。やわらかくあざやかな、美しいというよりももっと無邪気な笑みだった。そら恐ろしい笑みだと、俺は思った。
「でも、シンデレラよりも早くね、8時には帰りましょうね。セージくんのお家の車を出してね。今日はわたしの車に、迎えを頼んでいないから」
 車を出して、といわれても、俺に免許はないので、「お家の」車という表現は正しい。運転手つきの車だ。あんなものに軽々しく乗れる神経が、俺にはすでに理解が出来ない。
「馬鹿みたいだ」
 口をついて出てきた言葉はそれで、自分でもあんまりだなと思ったけれど、自制する気にもなれなかった。
「こんなの、馬鹿みたいだ」
 正直者の俺が嘘をつけずにそう言うと、向かいの女は笑みを深くした。そんなこと知っている、という顔だった。俺は彼女がこういう顔をする時、女という生き物全体が怖くなる。
 あなたのことで知らないことなんて何一つないのよと、言われている気がして。
「駄目よ」
 向かいの相手は魔法のようにナイフとフォークを操って、ホワイトソースのかかった魚の切り身を細切れにする。
「絶対に駄目」
 何を言っているのか、わからない。
「ねぇ、セージくん」
 そこで彼女が甘い声で俺の名を呼ぶので、俺は手に持った銀のナイフを彼女に投げそうになった。心象風景の中ではすでに突き刺した。新調だという真っ白のドレスが血に染まった。それは俺の妄想の中だけの話。
 その先の言葉をわかっているから、次の言葉を聞きたくなかった。
 けれど彼女は死刑宣告のように確実に無慈悲に、言葉という刃を振り下ろす。
「愛しているわ」
 彼女の名前は笙野七奈美しょうのななみ。双方の親が強引に決めた俺の恋人であり、俺の婚約者である。
 そして日本屈指のお嬢様学校に通う、頭のおかしい、可哀想な女の子だった。

六月十六日 天気・雨
 今日から日記をつけることにする。せっかく見ている毎日の夢を、このままだと忘れてしまいそうだから。
 わたしの名前はマノン。彼の名前はアデール。アデールはやさしいひと。銀の髪を持っている。緑の瞳を持っている。とてもとても美しい人。いつもわたしに笑いかけてくれる。でも、やせているのがとても悲しい。しばらく前までは、もっと顔色がよかった気がする。わたし達に両親はいたのかしら? わたし達はどこにいるのかしら?
 昨日の夢は雨に濡れる夢だった。目が覚めた時にも雨が降っていた。でも、わたしのそばにアデールはいない。 

 笙野七奈美とはじめて出会ったのは、高校二年の夏、俺がまだ十五才だった時。父の経営する会社の一つが創立四十周年を迎えたので、大きなホテルのパーティールームを貸し切ってのパーティーが催された。
 進学率の高い有名私立に合格してから、こういった父の集まりには決まってつれて来られていた。別に料理を食べるわけでもなく酒を飲むわけでもなく、制服のまま父の後ろにぴったりとついて、挨拶をしてくる人間に頭を下げる。そして決まって言われる「将来が楽しみですね」という言葉に、「ありがとうございます」と噛み合ってるんだか噛み合ってないんだかわからない返事を返す。「いやはやこれで安心だ」「一時はどうなることかと思いましたが」どうもならねぇよ、と心の中で吐き捨てる。楽しいのかと問われれば、ゲームセンターで小銭の浪費でもしているほうが何百倍か楽しいだろうが、多分、必要なことなのだろうと思っていた。日々の勉学と同じくらいに、いつか父のポストに立つためには。
 しかしその日は、会場にいる人間の人数が多すぎ、俺は途中から父親とは別行動を余儀なくされた。そうなれば会場に居場所などあるわけもなく、手洗い場に行くふりをして、ホテルのロビーに出た。
 十五才じゃ煙草も吸えない。携帯電話をいじりながらホテルのソファで時間をつぶしていると、傍らに人の立つ気配がした。
 まず最初に見えたのは薄いピンクの靴先だった。エナメルの入った、細いミュールだった。
 白いストッキングをたどるように視線をあげると、夏用で薄い生地のパーティードレスに身を包んだ、ひとりの女の子が立っていた。全体的に小柄な印象だった。肩を越すぐらいあるふわふわした栗毛の髪が暑苦しくなく似合っていた。一瞬、外国の人間かと思った。だが、何度見返してもその顔は東洋人のそれだった。眼以外の顔のパーツは小さくて、唇には薄くグロスが塗ってあった。
 ホテルのレストランに夕食を食べに来ている一般人、には見えなかった。どちらかといえば、お仲間のにおいがした。俺のというより、あの、パーティ会場の人間達の。
 しかしその表情は心なしか青ざめていて、俺のそばに立ちひたすら俺を凝視していた。
 俺はとりあえず姿勢を正しながら、対応をきめかねていた。一度見た人間の顔は忘れないつもりだが、目の前の女の子に見覚えがないようにおぼえた。……多分。
「あの……」
 かといって無視をきめるには相手との距離は近すぎ、何故こちらから声をかけなければならないのだろうかと釈然としない気持ちながら、口を開く。
「何か?」
 彼女は震える唇を開いた。
「……――――?」
 その時彼女が何を呟いたのか、俺はよく覚えていない。覚えていないというか、わからなかった。俺の知っている単語ではなかったように、思う。少なくとも、俺の名前であるとか、挨拶であるとか、そういった聞き慣れた言葉ではなかった。
「えっと……」
 次の瞬間、彼女は俺の腕を掴み、そうして言った。
「わたしのことをおぼえている?」
 すがりつくような、懇願するような、そんな響き交じりの悲痛な問いかけだった。青ざめた唇はまだ、震えている。
 俺は三度自分の脳みその記憶を舐めた。けれど該当する人間は見あたらなかった。
「……すみませんが……」
 それだけで、こちらの意志は伝わったようだった。彼女がみるみるうちに表情をかえた。見開いた瞳がうるみ、ぽたぽたと大粒の涙がこぼれた。
「ちょ、」
 俺は正直、狼狽えた。そりゃないだろうと思った。うわっと泣き出した彼女に、駆けよって来た影があった。
「お嬢様!」と呼ばれたのがわかったから、ああやっぱり、そんな人種なんだなと、呆然と思う。
「どうしました、お嬢様」
 肩を支えるように初老の紳士が彼女に呼びかける。「お嬢様」は泣いたまま譫言のようになにかをもらした。けれどそれらは泣き声ばかりで、言葉になってはいなかった。
 紳士は途方に暮れたようにこちらを見た。俺がちゃんと制服を着ていたせいだろうか、責めるような視線ではないのは助かった。これで女泣かせの汚名を着せられたら、たまったものではない。
「俺も、何が、なんだか……」
 視線にはそう答えるのが精一杯で、その間も「お嬢様」は泣き続けている。俺はとりあえずポケットから青いハンカチを取り出して、彼女に渡した。出てくる時に持ってきたものだから、汚れてはいないはずだった。
「とりあえず、落ち着いて……」
 彼女はそれを掴み、握りしめるようにすると、涙に濡れた声で譫言のように一言、こう言った。
「Mon amour」
 もしも俺の聞き間違いでなければ、の話だけれど。そのまま彼女が別室に連れられた後も、その熱烈な愛の言葉は、不気味なほどに俺の心に残ることになった。

六月二十日 天気・晴れ
 今日もアデールの夢を見た。今日もアデールは優しかった。私の編んだかごを街頭で売ってくれる。天気がよかったせいだろうか。旅人にいつもより高価く売れたと言って、干しぶどうの入ったパンを買ってきた。ミルクまで。神様にお祈りをして、二人でわけあって食べた。私はこんなに美味しいものを、他に知らない。

 数日後のことだった。父親の秘書に呼ばれて、俺は制服のまま父親のいるビルの最上階へと向かった。仕事中に俺を呼ぶのは珍しいことだった。仕事以外で、プライベートで父から呼ばれることは、もっと皆無に近かったけれど。
 父は挨拶もなく社交辞令もなく、すぐに本題に入る。その時は、デスクの上に乗った一枚のハンカチが本題だった。
「これはお前のものか」
 問われて俺は僅かに言葉に詰まった。確かにデスクの上にあるハンカチに見覚えがあったけれど、自分のハンカチを父親が突きつけてくる理由がわからなかった。まさか間違えてポケットに入っていたとかいうのでもあるまいし。
「……多分そうだと思うけど」
 どういうことだと視線で尋ねた。父親は革張りの椅子に深く腰をかけ、肘をついて難しい顔をしている。最近白髪の交じり始めた髪を固くなでつけていて、これといった特徴は無いが、自分とよく似ていると思う。
「笙野家の令嬢とは」
「は?」
 一瞬なにを問われたのかわからなかった。父親はそんな俺の顔色を図るように、まっすぐこちらを見ながら言葉をつなげた。
「会ったんじゃないのか。先日の創立パーティのホテルだ」
 あ、と無意識に声を上げていた。フラッシュバックしたのは、突然泣き出したあの「お嬢様」だった。そうだ、ハンカチを。
「確かに、会ったけど……」
「以前から知り合いだったのか」
「いや、全然。あの時会ったのが始めて。名前だって知らない」
 俺は正直に答えた。
「向こうは、制服から調べたと言っていた」
「はぁ……」
 話が読めなかった。ご丁寧に先方がハンカチ一枚返しに来てくれたのだろうか。俺はもうハンカチは向こうにやったつもりだったし、そもそも存在さえ忘れていたのだけれど。上流階級の付き合いというやつは、わからない。
「なんの話をしたんだ」
 父親の追究は続く。聞かれても答えようのないようなことばかりだ。
「話もなにも……なんか意味不明なこと言われて、泣かれた。……俺、なにか悪いことしたかな」
 問われて急に心配になった。あの時は責められることもなかったが、「令嬢を泣かせた」と何か苦情が入ったのかもしれない。父親の様子から見るに、相手は少なくとも父親が無碍に出来るようなご身分ではないのだろう。自分の行動のせいで、うちの家や会社が悪い立場になるのは避けたかった。たとえまったくの濡れ衣であったとしても、だ。
「いや……」
 しかし、父親の答えは煮え切らなかった。いつも単刀直入な言い方をする父親がここまで言葉を濁す理由がわからなかった。
「どうかしたの」
 たたみ掛けるように問いかけると、父親もここで曖昧な会話を続けられるほど暇ではないのだろう、重い口を開いた。
「お前、見合いをするつもりはあるか」
「は?」
 この時ばかりは、目が点になった。見合い……?
 真っ白になった頭に、追い打ちとばかりに父親は言う。
「笙野家から縁談が来ている。このあいだのパーティのホテルで、令嬢の誕生パーティが催されていたそうだ。そこで彼女がお前を見かけて、見初めたそうだ」
「見初めた……って……」
 おいおい、と思う。俺だって、伊達で金持ちの家に育ってはいないし、学校は一般的な進学校に行かせてもらってるおかげで、世間の常識とこの世界の常識が遠く隔たっていることは知っているけれども。
 見合いってなんだ。縁談ってなんだ。
 けれど、「見初めた」という言葉には、特に疑念はなかったと言ってもいい。確かに、あのホテルのロビーで、彼女は俺に恋に落ちたのだと言われても。信じがたいし率先して信じたくもないが、否定は出来ないような気がした。それくらい、彼女の視線は熱烈だった。
 たとえそうだとしても、俺はそんな思考回路に陥ることができる頭の方がどうかしていると思うけれど。
「……相手はいくつ?」
「お前と同い年だ。倫聖女子学園の二年。フルネームは笙野七奈美。……写真は見るか?」
「勘弁して」と、俺は首を振る。今更見合い写真をしげしげ見た所で、何が変わるとも思えなかった。倫女は都内でも有名なお嬢様学校だ。とりあえず俺は、笙野家について尋ねた。相手の家のランクが知りたかったのだった。つまり、相手がどの程度の『上流』なのかということを。
 返ってきた父親の答えは舌を巻くものだった。血筋から家柄、稼業まで文句ない。祖父の時代から会社を立ち上げた家のような成金とは違う。銀行まで経営していると聞いて、もはや感嘆しか漏れなかった。
「念のため聞くけど……人違いとか、高尚なジョークとは違うんだよね」
「違う、と言わざるを得ないな」
 父親も、この事態には混乱しているらしい。当たり前だろう。このご時世に、高校生で見合いだの縁談だの、「韓流ドラマかよ」と突っ込みたいのをかろうじてこらえた。
「……まあ」
 父親の吐く息の音がして、視線がゆるんだように感じた。
「断っても、構わないぞ。先方も、非常識は百も承知だそうだ。むしろ、年齢のことなりなんなり理由をつけてお前に断ってもらいたいんだろう。娘がひたすら熱を上げているらしいからな」
 どうやら、ここで俺が断ったとしても、父親や会社に不利益を被るような話ではないらしい。子供の教育に関しては、放任主義なところのある父親だ。無理強いをするつもりもないようだった。
 けれど。
 デスクの上に乗ったハンカチを眺めて、しばらく考える。何度あの日の場面を思いだして見たところで、笙野七奈美という非常識な令嬢に対して特別な感情はわき上がってこなかった。それは、可もなく不可もなくということでもある。それなら。
「……でも、その縁談は、うちの会社に有利なことなんだろ?」
 俺の言葉に、父親はもう一度視線を強くした。父親がこういう目をするとき、俺は彼から値踏みをされている気持ちになる。放任主義で、実力主義の父親だ。彼の椅子に座るためには、それなりの、努力と才能がいる。
 そして、他の人間にあの椅子を渡すつもりはなかった。
「…………笙野家との繋がりは、魅力的だ」
 父親は、無理強いをする人間ではなかったが、正直な人だった。俺は小さく観念をしたように、深く長いため息を吐いた。
「断る理由がないね」
「いいのか」
「美味しい話、のように見えるけど」
 むしろ俺は、父親がどうして渋るのかがわからなかった。息子可愛さなんぞ、今更あるわけもないだろうに。使える物はなんでも使い、政略結婚なんてざらだったんじゃないのか。少なくとも彼は、俺の母と、そうして結婚したはずだった。
 今度は俺の方から値踏みするように見てやると、彼は珍しく視線をそらし、苦虫を噛み潰したように呟いた。
「女が狂うと、後が怖い」
 なるほどね、と、俺は思った。

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