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ex.Gold Fish 03

 一病息災とはよく言ったもので、病気のような婚約者である所の七奈美も、月日がたつうちに空気のようになっていくのだから、まったく慣れとは恐ろしい。
 七奈美は気にすれば不愉快だが、気にしなければ、空気のように振る舞うことにたけていた。彼女にとって恋愛とは本当になんなのだろうか。
 恋愛ごっこというにも、あまりにもいびつなこの関係を理解も出来なければ、したいとも思わなかったが、それ以上に俺に眼前の問題として立ちはだかったのは、ありきたりだが進学という問題だった。
 俺はどうしても、実力で名門大学の法学部に上がるつもりだった。そうすることで、煩い親戚のガキどもも黙らせるつもりだった。
 模試の結果を睨みながら俺は思う。
 まだだめだ。俺は負けるわけにはいかないから。
「セージくん」
 まだ、俺、は。
「セージくん!」
 耳元で金切り声のような七奈美の叫びがして、ぼうっとしていた頭が揺り動かされた。あれ、と思った。光が差し込む、昼間の図書館だった。
 のぞき込んでくる七奈美は俺よりずっと青い顔をして、いつもは穏やかな表情をかたくしながら俺に言う。
「大丈夫ですか? あまり寝ていないの?」
「……関係ないだろ」
 振り払うようにそう言ったら、七奈美は深く頭を下げた。そんな風にされるのは初めてだったから、俺はぎょっとしたのだけれど、少し頭にもやがかかっていたので、上手くうけとめられなかった。
 七奈美は頭を下げて、誠実に、切実に、俺に言う。
「身体だけは大切にして下さい」
 その願いを、おれはどういう風に受け止めていいのかわからなかった。喉が渇いて、胸がやけた。恋い焦がれたわけじゃ、決してなかった。
 身体だけは。
 その無責任な言葉を、憎んだのだった。
「俺の身体が……あんたに、なんの関係があるって?」
 ふつふつと沸いたのは怒りであり憤りだった。八つ当たりだとわかっていても、言わずにはおれなかった。
 明るい光の入る図書館で、俺は言う。
「身体なんか潰せるだけ潰せばいい、俺が分不相応な会社を継ぐためには、それくらいやんなきゃ無理なんだよ!!」
 あの家にいながら、俺にはなんにもない。いなくなった義兄とは違う。血統さえも、不完全な俺には!
 世にも幸せそうな七奈美がひどく癪にさわり、それ以上に無神経に身体を労ろうとする様子がむかついた。
 病弱な子供でもないんだ。
 あんたは俺の母親でもなんでもない。
 俺の言葉を真っ向から受けて、七奈美は凍り付いていた。いい気味、と俺は思い、あざけるように言った。
「それともなにか。あんたは、俺が乞食になっても愛せるっていうのか」
 お嬢様は今度はどんな夢物語を言ってくれるのかと睨んだならば。
 七奈美は差し込む光を背中に、白いブラウスを光らせたまま、なんの感情もうつさない目で言った。
「わたしは贅沢が大好き」
 まるで凪のような、暗記したものを述べるような淡々とした口調だった。
「美味しいものが大好きだし、貧乏なんて大嫌い」
 俺に負けず劣らず、否もっと冴え冴えとした、冷たい言葉だった。まるで、地獄を知っているかのような。
 けれど次の瞬間、七奈美の目が切なげに揺れた。優しいというにはあまりにもの悲しげに。そして、口調をまったく変えて、囁くように、言う。
「でも、四畳半の部屋だって楽園だと思う」
 敬虔なクリスチャンが祈りを捧げるようにして。
「あなたがいるなら、どこだっていい」
 そう言うと、七奈美は椅子に座った俺の足下に膝をつき、乞うように、言う。
「叶うことなら、わがままを言ってもいいのなら。わたしの願いは、ひとつだけよ」
 七奈美の目が、揺れる。光が、水を泳ぐようにして。
 そして彼女はたったひとつだという、願いを口にした。
「小さな水槽で構いません。金魚を一匹、飼いましょう」
 金魚……? そのおかしな言葉に、なにか答えようとした次の瞬間だった。
 ひらりと膨らむスカートを翻し、立ち上がった七奈美が、いつものように真意のわからないお嬢様の笑みを浮かべて言うのだった。
「これ以上身体を壊したら、病院デートよ、セージくん」
 そして俺がまばたきを繰り返すうちに、七奈美はまっすぐ歩いて行ってしまった。
 取り残された俺は、目を細めて。
「……病院に行くのはそっちだろ」
 と、悪態をつくも、力なく響いただけだった。


 七奈美と出会って二度目の夏が来た。今度の夏の法要はパーティつきで、七奈美の我が儘をもってしても俺を連れ出せなかった。
 そのことに気づいた七奈美は、今度はパーティについてくると言い出した。そろそろもうどうでもよくなっていたので、来れるのもなら来てみろと言えば、パーティ会場に現れた七奈美は、誰よりも派手な、赤いドレスを着ていた。
「金魚みたいだな」
 半分嫌み、それから半分は、多分褒めるつもりでそう言ったならば。七奈美はほんの一瞬、耳の先まで赤くなって。
「褒め言葉と受け取っても、よろしいかしら?」
 そんな風に言う時、わざと無理をしているのだと、俺もいい加減に気づいていた。不本意ながら、長いつきあいだったから。
「嬉しいなら、嬉しいって言えよ」
 エスコートのつもりで腕を差し出しながらそう言ったならば。七奈美は薄く化粧をした目を大きくして。
 ささやかに、淡く、笑うと言った。
「……嬉しいです」
 それがあんまり泣きそうな響きだったから、俺は胸のざわめきを誤魔化すように、早口で言う。
「今日は嫌なこともたくさんあると思う」
 俺は一族でも鼻つまみだから、という意味のことを言えば、七奈美は今度はきゅっと、勝ち気に笑って。
「それは、雪の降る路地裏で飢えて凍えることと、どちらがつらいことですか?」
 言いながら、俺の腕にとびついてきた。
「それ以下のつらさなんて、つらさのうちに、入りませんわ」
 そういうもんか? と思いながら。
 俺は七奈美をつれて、パーティ会場に入る。


 なぜ俺が一族の鼻つまみものかと言えば、俺が純然たる「この家の子供」ではないからだった。俺の母親は後妻で、俺は俺が生まれてから、この家に引き取られた。
 愛人の子供が、後妻の子供になった。
 笑いどころはどこにもない。
 また立場の悪いことに、父親は前妻との間に子供をもうけていたので、腹違いの兄がいた。今もいるかといえば、どうだろうか。出て行ってしまった奴のことは知らない。とてもとても優秀な長男だったらしいが、家を継ぐ気は全くなかったらしい。俺は多分、そいつの代理品として引き取られた。
 神童でもなんでもなかったのに。
 だから、俺の顔を見れば嫌味しか言わない親類縁者のガキどもの気持ちも、よくわかってるつもりだ。そうだよな。こんな奴が本家の跡取り息子だなんて、馬鹿げてるよな。
「今年は女連れかよ」
 裕福な肥満児達が贅肉に目を細くして俺を見て言う。俺はどうもと口の中だけで答える。
「可愛いじゃん。初めまして?」
 七奈美は声をかけられて、怯えるかと思ったがさすがに肝が据わった所を見せた。
「ごきげんよう」
 迫力のある、「お嬢様の笑み」だったから、温室育ちのお坊ちゃん達は引いた。まあ、そうだよな。敵わないとわかると、今度は水をこっちに向けられる。
「相変わらずしけたツラ」
 はいはい、すみませんねと俺は思うけれど黙っている。臆病な、引きこもりを装う。こんな所にいていい人間じゃないという言葉には全く同意なので、傷つく心も持ち合わせてない。けど折れない。
 いつか、お前達を踏みつけて上にのぼってやる。
 そう思っていた時だった。
「セージのセージは、シセイジのセージだろ」
 その言葉には、笑ってしまった。まったく上手く言ったものだと、自嘲に似た笑みだった。
 けれど次の瞬間。
「ごめんあそばせ」
 前に踏み出したのは隣にいた七奈美だった。彼女は綺麗に爪をぬった指先を親戚のガキの手首に伸ばした。その手に持っていたのは細いワイングラスと赤ワインだった。未成年のくせに。
 なにをするのかと問うまでもなく、それから止める暇もなく、くい、と七奈美の手が親戚のガキの手を引き、そのワイングラスを、逆さにした。
 あろうことか、自分の頭の上で。
「なっ」
 ぎょっとしたのは俺だけじゃない。周りにいたすべての人間が目を剥いて言葉を失った。ひょうひょうとした顔をしていたのは、血まみれのようになった七奈美だけ。
 近くのボーイに声をかける。
「あの方にかけられましたの」
 そして周りの大人に目配せをした。
「つまみだして、いただける?」
 彼女はあの、根っからの「作り物のご令嬢」の声でそう言ったのだった。


 鍵を貰いホテルの一室に駆け込むとベッドにバスタオルを引いてそこに座らせて、もう一枚頭からバスタオルを投げつけた。
「なにしてんだよ!」
 眉間に血のように流れるワインが隠れて、ようやく俺は七奈美に向かって叫ぶことが出来た。
 あんなのはどうかしていると、ようやく言えた。
 七奈美はバスタオルの下、小さな声で。
「ごめんなさい」
 肩を震わせながら、言った。
「ごめんなさい。許せなかったの」
 かぶったバスタオルで、顔を覆った。
 泣いているのだと、ようやく気づいた。
「どうしてセージくんが、あんな事を言われないといけないの」
 そうして泣くのが、俺のためだということに気づいた。悔しさも、悲しみも、すべて俺のためだった。
 めまいがした。
 ああ、唐突に、こいつはもしかしたら俺のことが好きなのかもしれないと、ひどく今更なことを思ったのだった。今まで、頭がおかしくて病気な女だと思っていた。狂っていると。そう思って、俺が好きだという言葉を、真に受けた事もなかった。信じた事もなかった。
 自分が人から好きになられるなんて信じられないといったら、子供のようだと笑われるだろうか。
 俺の母親は結局ずっと俺のことを父親から好かれるための道具だと思っていたし、俺はずっとろくに喋ったこともない義兄に負け続けていた。この家にはべったりと、死んだ前妻の影と家を出て行った義兄の優秀さがこびりついていて、父親はそれらから逃げながら、その面影も俺に求めているのだった。
 でも、それはどれも、俺じゃない。
 代用品にもなれない俺が誰かから愛されるなんて。そして誰かを愛するなんて。そんな日は来ないと思っていた。今もわからない。わからないけれど。
 俺はバスタオルを持ち上げ、泣いた七奈美の顔をぬぐってやる。それから
「泣くなよ」
 言ったら、自分も少し、泣きたくなった。
「ごめんなさい」
 七奈美は顔を歪ませて、泣きじゃくって言う。
「ごめんなさい。頭のおかしい女でごめんなさい。あなたを好きでごめんなさい。好きになってごめんなさい。忘れられなくてごめんなさい。こんなにも好きなのに、あなたを幸せに出来なくて、ごめんなさい」
 ごめんなさい、そう泣きじゃくりながら。それでも、と七奈美は言う。
「世界のすべてがあなたのことを嫌いでも」
 俺は目を閉じる。
「わたしは、あなたを」
 そして、その言葉を皆まで言わせず、唇を塞いだ。

 葡萄酒の味のするキスだった。

 触れるだけの、それだったけれど。どんな風に作用したのか、ともかく七奈美の涙は止まったようだった。大きな目玉をこぼしそうなほど見開いて、涙に泳ぐ瞳を揺らした。
 震える手で自分の唇に触れて。
「観念してやるよ」
 俺は、照れくささを消して笑う。あんたがどれほど頭がおかしくても、病気でも、気が狂っていても。
 あんたでいいんじゃないかと、思った。その時だった。
 七奈美の瞳が震え、一瞬その瞳に、赤みがかかり。
 かみさま、と呟いた。
 それが、俺の婚約者である、笙野七奈美の最後の言葉だった。




 七奈美が、俺のことを忘れてしまった。
 突然のことだった。葡萄酒にまみれたまま突然昏倒し、目を覚ました時には、七奈美はこの二年の記憶、中でも俺に関する事だけを、すっかり忘れてしまったのだった。
「ごめんなさい、セージさま。……覚えていないの」
 そう言って、七奈美はすまなそうな顔をした。その横顔は今までよりずっと純粋でずっと健やかだった。
 彼女は夢から覚めたのかもしれない。それは多分、悪い悪い夢だったのだろう。
 婚約は破棄された。俺と父親は全面的に笙野家の謝罪を受け入れるしかなかった。狐にでもつままれたような、奇妙に取り残された気持ちだけが残った。
「災難だったな」
 いつも変わらぬ不機嫌な顔をした父親が、病院の入り口でそんな事を言った。俺は答える言葉を持たずに、ため息だけを返した。会話は多くなかった。これから仕事だからと言い残し、ひとりでタクシーに乗って去って行った。
「セージ様」
 バスででも帰ろうか、いやこのままぶらぶらと歩くかと思っていた俺の背に突然声がかかり、振り返る。
「松宮さん」
 立っていたのはご令嬢付きの老人で、また重ねてお詫びの言葉でも聞かされるのは敵わないなと思っていたら、皺の深い彼の手がゆっくりとなにかを取り出した。
「お嬢様から、預かっていたものがあります」
 それは分厚い革張りの、本のようだった。
「もしも自分がセージ様のことを忘れるようなことがあれば」
 表紙には、タイトルがない。目の前に突きつけられる、その重い書籍。
「この日記を渡して欲しいと」
 日記? と俺は思う。
 預かっていた。もしも忘れるようなことがあれば? 今更彼女の病の記憶など見たくはないと思ったが、差し出されたそれを手に取ったのは、彼女には不要なものだろうと思っただけに過ぎなかった。
 七奈美は悪い夢から、覚めたのだから。
 こんなものは取り上げるべきだ。なにが書いてあっても今更驚くことはない。どんな病でも。どんな狂気でも今更驚きはしないと、ゆっくりページをめくった。そして。

わたしの名前はマノン。


 突然飛び込んできたのは、そんな文字だった。息が止まるかと思った。なぜかはわからない。どうしてこんなにも、胸が叩かれる衝撃を受けるのか。整った少し丸い字で紡がれるのは、まさに病であり狂気であった。


 アデール。
 生まれる前の記憶。
 愛しいひと。
 Gold Fishに祈った。
 すべてはGold Fishの言ったとおりだった。
 あの人のことを悪く言うのは許さない。
 どうか今日も、飢えることもなく凍えることもなく、わたしの目の前で生きていて。
 うまれる前から、愛しているのに。
 あなたを幸せに出来なくて、ごめんなさい。


 日記は、去年のクリスマスで終わっていた。それらは、不可思議であった七奈美の言葉の、すべての根拠に等しかった。
 馬鹿げている、と思った。気味の悪い、頭がおかしい、こんな、こんなものが。
 ぽつりと日記帳に雨が落ちた。白い病院の入り口で、屋根もあるのに雨など降るわけがなかった。
 涙だった。
 俺は松宮さんを置いて走り出す。病院の外ではない。その中へ。床を鳴らして走りながら、こんなものを信じるのかと自問する。信じるのか。信じるんじゃない。信じるんじゃないんだ。
 階段を駆け上がる。窓から差し込む明るい光が目に刺さる。
 信じるんじゃない。俺は知っているだけだ。
 ──彼女が、赤みのかかった、琥珀の瞳をしていたことを。
 Gold Fishよ。赤い色をした神の使いよ。
 七奈美は運命に敵わないと日記に記した。
 俺はそんな約束、しちゃあいない。
「七奈美!」
 病室のドアを叩きつけるように開き、名前を呼ぶ。驚きに振り返る、無垢な黒い瞳をした彼女は、もしかしたら今度こそ生まれ直したのかもしれない。
 願いは呪い。その緊縛から、解き放たれたのだとしても。
 俺はベッドの傍らに、膝をつき。
 細い手をつかみ、握りしめる。
「七奈美」
 彼女は俺を追いかけてくれた。どれほどの絶望を覚悟しても、返らない愛だとしても、俺だけを見てくれた。そして、今、言葉を残してくれた。今度は、俺の番だ。
 奇跡よ、起これ。
 運命に、勝つために。

「Manon、Mon amour」

 みるみるうちに、七奈美の瞳に、涙が浮かび。色をなくした、唇が震えて。紡いだ、言葉は。
「──Adair」
 そうだ、それでいい。
 誰の代わりも嫌だった。俺は俺だ、義兄の代わりにはなれないとずっと思っていた。それでも今、代わりだっていいと思った。
 小さな身体を腕の中に抱きながら。たとえ、遠い遠い、数百年も昔の、叶わなかった恋の代用品だって構わないのだと思った。
 あの冷たい路地裏で。俺は、この子を抱きしめるために生まれてきたのだと、かつて思ったのだから。
 赤い髪の。おれの恋人。
「セージ、くん」
「ナナミ」
 金魚がつないだ、俺の記憶。俺の愛。
 神様。俺に。
 飢えも凍えもしない世界と。
 この子をくれて。ありがとう。
 たとえこの先待つ未来が、四畳半でも構わない。何を失ってもどんな苦しみでも、この小さな身体が、飢えとこごえに震えなくても済むのなら。
 今度こそ、もう、彼女を離さないのだと、俺は、神に誓うように、そう思った。

END


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