言葉について②

 妹が子供と帰省しているので、いつもは月に一度程度しか帰らない実家に頻繁に帰る日々。子がかすがいなのは、夫婦間だけでなく私の実家でも大いに発動している。歳をとる毎に口数が少なくなる父親に、平気でぐいぐい何でも話しかけに行く姪っ子のおかげで、家族間の調和がとれている瞬間がたくさんある。放っておくとお互いの揚げ足取りのような会話しかしない父親と母親、孫たちのことを愛でる対象として見ているようだけれど、自分たちもすくわれていること気づいているだろうか。普段の二人の会話を聞いていると、私の中には”パートナーシップとは”という疑問が立ち上がってきてしまう。世代のこともあるから攻める気持ちは湧かないけれど、もし自分が誰かとパートナー関係を結ぶとなったら、どちらかが死ぬまでのことまで考えて決断したいと思うこのごろ。自分が一緒にいると決めた人とは、最期まで対話をしたい。ずっと話していたい人がいい。

 先週の虎に翼、亡くなった優三さんのことを娘の優未に教えてあげたいけれど、うまく言葉にできずに口ごもった寅子のことをたびたび思い出している。寅子の思いは寅子にしかわからないけれど、私もうまく言葉にするのを躊躇ってしまうことがたまにあって、今日はそれについて考えてみる。

 私は、消化しきれないことや大切な感情を無闇に言葉にすることができない。状況にもよるけれど、この二つの理由で、容易に言葉にしたくない、できないことがある。喜怒哀楽、どの感情でも同じ。そういう時、私は人を避け、会話を減らし、そのことを知られないようにする。誤魔化したりのらりくらりかわすことも事もできないたちなので、こうするしかないのだ。

 今までのことで思い出してみると、だいたいこの2つに分類される。

・喪失の経験
・人への好意

 まず、喪失について。
 人や動物との別れが苦手すぎる。愛犬をなくした時も、家族は彼女のエピソードや死の意味を話してその悲しみを癒しているように見えた(実際はそれぞれに思いがあったと思うので真にはわからない)けど、私はそれをすることで彼女の死が確定してしまうような気がして何も話せなかった。その事実が、すでに事実として目の前に横たわっているのは頭には伝わっているけれど、体に馴染まない。馴染まないと話せない。話したくない。馴染んだあとも言葉として発することが出来るまでにかなりの時間を要する。
 また、家族以外の人にはその事実を伝えないことにより話題にあがらないようにする。伝えることにより、言われるであろう”似た経験”を話されることが苦手だ。私の中でそれは恐ろしいもので、共感の顔をした相手の利己に見える。「私の辛さや喪失の経験は、あなたのそれとは違う。一緒にするな。」と叫びたくなり、他者からは”優しい言葉をかけてくれているのに、酷い人間だ”と映るだろうな、と想像するところまでがセット。考えすぎかもしれないけれど、いつもそう思う。だから何も話さない。なくしたり別れたりの時いつもそうしている。
 若い頃は、辛さに耐えられず人に話していたけれど、話してそれが軽減することはなかった。寧ろ増幅してしまうことの方が多かったから、知恵がついて話さなくなった。保身だ。自分を保つために私にとっては必要な沈黙だ。私の辛さは私だけの辛さ。誰かに分かってほしいと思わないし、軽々と言葉にするとは今後もしないと思う。

 続きはまた今度。人への好意を口にしたり言葉にしたり出来ないことについて。


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