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H おろうそくを想う(3)

おろうそくに関する大切な思い出の3つめです。

大阪の小学生は定番として「大阪より10度低い高野山」へ林間学校の一泊経験を持てたことは誇らしいと思います。その40年のちに2度目として家族で参拝したのは、お仏壇屋に入社し少なからず仏教各宗派への関心が高まったことと、「ろうそく祭り」という行事に興味が湧いたからです。

「ろうそく祭り」は毎年8月13日に行われる高野山のお盆の迎え火の行事です。宿坊で夕食をいただいたあと、高野山のお墓の入り口に行くとボーイスカウトの子供たちがわたしたち1人に2本ずつのろうそくを竹ひごに刺したものを配ってくれます。広大な敷地のお墓の参道の両側に発泡スチロールにアルミ箔を被せた長い長いろうそく立てがセッティングされていて、すで何本かの灯りが灯っていまふので、そこから2本のろうそくに火をもらって竹ひごをろうそく立てに刺して並べていくのです。

何万人もの参拝客がこの儀式に参拝するので、10万本ほどの灯りが参道に灯ります。派手さはありませんが言葉にできない力を感じます。わたしはこの高野山のろうそく祭りと、東京の池上本門寺のお会式(おえしき)は、ディズニーランドのエレクトリカルパレードにも負けない力があると考えています。いいえ、逆にエレクトリカルパレードを考案したベースには、世界中のこういう灯りの文化があったんじゃないかと想像しています。

お盆に灯をともす行為は先祖の霊を迎え入れる儀式であり、日本文化として根付いています。お仏壇屋では5月頃から盆提灯が大量に展示され、毎年一番多くのお客様がお越しになることになります。特に7月8月の休日は凄いです。

一方でわたしの所属する浄土真宗は、お盆だから先祖が帰られるとか提灯を飾ってお迎えするという考え方はありません。お盆でなくても亡くなった方はいつも迷いの中にいる私たちの傍にいてくださると考えるからです。ならばその考え方だと高野山のそうそく祭りは、筋が違う無用のものなのでしょうか? いやそんなことはありません。ほとけさんの智慧としての灯りを感じ、灯りを媒介してほとけさんとわたしたち人間が交わっている世界はたいへん尊いことだと思います。

浄土真宗のお宅であっても、九州では盆提灯でお迎えすることも普通にあるそうです。また関西においての高野山は、広い気持ちの上に立つ仏教的な特別の場所だと思います。お家の宗派がどうであっても、真言宗の宗祖弘法大師 空海さんが開かれた高野山に亡くなられた方のご遺骨を納める風習もあるそうです。

東日本大震災から10年目である2021年3月にこれを書いています。このところ新聞では震災の記事がたくさん見られます。東北では提灯やろうそくを灯して亡くなった方の慰霊(霊を慰める)や鎮魂(魂を鎮める)の行事がひろく営まれるという報道です。これは、極めて厳粛な儀式です。わたしの所属する宗派では霊という考え方はありませんので、慰めたり鎮めたりする儀式や行事こそありません。しかし亡くなった方に想いを寄せ、灯りを媒介してほとけさんとわたしたちが交わるという点では相違はないと思います。ほとけさんの智慧を感じる機会、ほとけさんから智慧を授かる機会としての高野山ろうそく祭りには、死ぬまでにもう一度くらいはお参りしたいと思います。

くどいですが、わたしは浄土真宗の文化の中で育ったことと浄土真宗の僧侶の方のご法話を常日頃から聞いているので、迎え火をしなかったり霊を考えなかったりすることを納得し安心しています。でもこの note はどなたにも忖度せず、わたしの心の底で感じたことを書くことにしています。