ながれもの――いつかは終わるということ

ブルーハーツの歌に「ながれもの」という歌がある。高校時代に知ってから、たまに聴きたくなり、聴くたびに、これは自分かなと感じる。成長がないのかもしれない。

自分の人間関係、のみならず、全てにおいて、「いつかは終わる」ということと、「仮」だという認識がある。厳密にいうと両者は違うのだが、自分の中ではセットになっている。

「いつかは終わる」というのは正しい。50億年後に太陽は消滅すると聞くし、そんなに長いスパンで考えずとも、人はいずれ死ぬ。死ねばやはり、終わりになる。死んでしまった友人のことをたまに思い出したりするが、年々彼らが生きていた頃の記憶が薄れてしまって、思い出して悲しくなる。

問題は、今が「仮」だという認識だ。たぶん、幼少期に嫌なことが沢山あり、そこから逃げ出したいという気持ちでいつもいたのに、結局逃げ出す度胸がなかったことに由来している。どんな場にいてどんな振る舞いをしても、それは「仮」ではなく、その場その場での振る舞いが自分の本質なのだ。その場でどのように思われようとも、それがどれだけ不本意であっても、「本当の自分」などというものよりも、自分が「仮」だと思いたい卑小さや情けなさこそが、周りが受け取る自分の真実なのだ。なんかカイジの班長がそんなことを言ってたな。

自分にとって、多くの場は逃げ出したいものである。大体どこに行っても馴染めない期間が長かったので、ようやく馴染めるような場所ができても、馴染めていること自体に居心地の悪さを感じるようになってしまった。

これでは継続した関係を築けない。困ったことだ。私だって本当は、気心の知れた仲間と、他愛もないことを言いながら、特にこの人達との関係がいつかは終わるとは思わずに過ごしていたいのだ。

かと言って、全てを捨てて、別の地でやり直すこともできなかった。物心ついた頃から30頃までずっと、自分の名前や過去の人間関係やその他全てを捨て、顔を変えて、誰もが自分のことを知らない場所で、ひっそりと暮らしたいという思いがあったものの、現実にはtwitterのアカウントさえ消すことができないのだ。

移民船に乗り込むべきだったんだろうが、外国に出れば納豆ご飯が恋しくなる。そして、もうそんな齢ではない。

「仮」の話に戻ると、自分が今まで生きてきたこの「仮」の認識は、「ながれもの」の世界にぴったりと合うんだけれども、twitterのアカウントさえ消せない人間が気持ちだけ流れ者ぶってても良いことは全くないので、今生きている場所が「仮」だと思わないように、生を実感したかった。単純な話なのに、なんでこんなに自分が生きることにリアリティがないのだろうね。

自分の人生のテーマはよくわからないが、それでも「仮」のつもりで生きていた時間が、他人の人生のモブキャラにはなってしまっている。そして、他人の記憶の中に生きる自分を消すことはできない。

自分の生には特に希望もテーマも存在しないが、「ながれもの」として生きていく覚悟を持てない以上は、自分の生を「仮」だとは思わずに、良いモブキャラでありたいものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?