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絶対にちゃんとしない

こんばんは。id_butterです。

今回は「責任」ということについて書いてみる。

以前こんな記事を書いた。
我が家には宇宙人のような姉と地球人らしい妹がいる。
記事の中で、姉は「大事」で妹は「かわいい」と書いた。

この理由は自覚している。
まずはそこからはじめてみようと思う。

子育てなんてどこのママも普通にやっている。
なのにこんなに大変なの?

そう思ったのは長女が産まれた翌日のことだった。
母乳が、出ない。
産まれた赤ちゃんが一週間で無事に退院するためには、毎日30gずつ体重を増やさなくてはいけない。
たった30g、知らないひとはそう思うはずだ。
でも、産まれたばかりの赤ちゃんの体重は、いとも簡単に減る。
30g、つまり30ml以上、排泄も考えたらそれ以上の母乳を彼女に飲ませなければいけない。
その母乳が、まず出ない。

出産当日は、たった数滴の母乳を絞り出すのに数十秒かかった。
疲労の中ただでさえ少ない睡眠時間を削り、ぎゅうぎゅう自分の胸を痛めつけて、やっとのことで抽出される数mlの母乳を哺乳瓶に溜める。
昨日まで、コスト削減とか効率化とか売上目標とかを考えていた。
比べて、この効率の悪さとは一体なんなのか。
食料としての自分の無能さに涙が出る。
自分が食品工場で胸は食料保存庫でこの工場は供給能力が不足している…
そんなカルチャーショックで頭をぶん殴られて、絶望に襲われる。

オムツを替えた後の体重測定に心を削られる。

母乳を出すために助産師さんがマッサージをしてくれる。
ギリギリギリゴリゴリゴリ。
これがとんでもなく、そして経験したことのないほどに痛い。

問題はそれだけではなかった。
出にくいおっぱいから、これまた産まれたばかりでMAXかよわい赤ちゃんが母乳を飲もうとするとどうなるか。

正解:すぐ寝る

生後2日目の赤ちゃんをなぜか寝かせないようにほっぺをつんつんし、無理におっぱいを飲ませる。
なんだこれ。なんでこんなことを。

それでも、体重は増えない。むしろ減っていく。
母親の神経もすり減る。
体重が減れば、弱り、死に至る。
そんなイメージにうっすら思考が囚われる。
「命」がたやすく失われてしまうだろうプレッシャーがすぐそばにある。
糖水と呼ばれる母乳の代用品を飲ませて、なんとか体重低下を凌ぐ、けれど心細い気持ちが消えることはない。

数日経って、おっぱいは出るようになる。
すると今度は、四六時中すわれる乳首が、擦り切れてヒリヒリ痛い。
パジャマに擦れて寝られない。
数日でたくましくなった赤ちゃんにぐいぐい吸われ、痛みに耐えながら、なんとか体重が増加してくれますようにと祈る。
切れた乳首の傷に専用のクリームをすり込む。

退院が見えてくるとそれはそれで怖い。
ひとりでやっていけるだろうか。
この子に何かあったら、どうしよう。

わたしは出産後の里帰りする状況になかったから余計に不安は増したけど、多かれ少なかれ母親になったことのあるひとはこんな経験があるんじゃないかと思う。

このときの押しつぶされるようなプレッシャー、それは命の責任だ。

それは退院してからも続く。

これが恐怖だった。
寝ている長女の口元に手をあて、息をしていることを確かめる。
自分が寝ている間に何かあったら。
ほんの10分息が止まれば、ひとは死ぬ。
その見落としを24時間警戒する日々。

産まれてすぐは数時間おきに授乳が必要だ。
授乳に30分、寝かしつけに30分、もしおきてしまえばそれをやり直す。
わたしは、2時間おきに授乳をしていた。

その細切れに空いた1時間に自分の睡眠・食事・お風呂を滑り込ませる。
その貴重な睡眠時間ですら、恐怖に奪われる。
真っ裸でこどもを膝にだきおっぱいをあげる自分の姿がオランウータンに見えたのはもうどこかですでに書いた。

子どもを育てるのがつらい、とよく聞く。
けれど、その手前でこの命のプレッシャーにひとりで立ち向かってるからなんじゃないかと思っている。
そして自分も人間の尊厳が失われるギリギリにいるということ。

少なくとも、我が家でこんな気持ちを持っていたのはわたしひとりだった。
元夫はこんな思いをしていなかった。
そして、元夫は今でも「イクメン」としてわたしのママ友の間では通っている。

ママ友との間で、「子育ての最終責任」について話すことがある。
ドラマでもよくあるシーンだ。
子どもが亡くなった、あるいは誘拐されたどんな時も、必ずといっていいほど夫は妻を責める。
どんなに「ふたりで協力」しても、「積極的に参加する」イクメンの旦那様でも、最後はひとりなのだ。
責任を背負えるのは一人だけ。
ママに限ったことではなく、それがパパになることもあるとは思う。
だけど、なぜかふたりで背負っている夫婦に会ったことがなくて、ひとりなのだった。
メインとサブがいるのだ。

長女を育てている間、かわいいのに、かわいいと思えたことはなかった。
守ることに必死だった。
毎日、死んでしまったらどうしようとふと思う一瞬があった。
子育てを「手伝ってくれる」夫なんていらない、そう何度も思った。

今はふたりとも大きくなり、流石に命の責任を実感することはなくなった。
代わりに人生を背負っている気分になることはある。
目の前の宇宙人と地球人が明日も10年後も20年後もしあわせでいられるために、今身につけておくべきことは何か、そのためにできることはないか。
そんな焦燥感が追いかけてくる。

コントロールしてはいけない、そう思いながら、どうしても「親として」干渉することをやめられない。ジタバタしてしまう。
責任というのはいいことのようだけど、いつも矛盾をはらんでいて、わたしの中のただのわたしと対立する。それはかつてわたしの親がわたしに抱いたものと同じかもしれない。


責任について考えてしまったことはもうひとつある。

昔、本宮ひろ志の漫画をよく読んだ。
兄の部屋にコレクションがあったから、よくこっそり読んだ。
昭和の男の豪快さ、みたいなものがおもしろかった。
今でも覚えているセリフがある。

「男の愛は責任感だ。」

なるほど、と思う。
同じ「愛」という言葉を使っても、男性の中にあるそれと女性の中にあるそれは違うものかもしれない。

単純に男性用風俗が星の数ほどあり、女性用風俗が流行らない理由を思う。
男性は性欲と愛が切り離されている。
女性が切り離しにくいのは受け入れる側でリスクが高いからだと思う。

男性の運営する恋愛系YouTubeでは「つき合う前にやってはいけない」と言っているし、noteでも「セフレから本命に昇格する方法」みたいなのを見かける。
一般的に、男性は最初から女性をカテゴライズしており、一旦カテゴライズされてしまうとそこから抜け出すのは難しいことが伺える。

けれど「セフレ沼」という言葉があるくらい、女性にとっては「彼氏」と「セフレ」あるいは「スキピ」の間にある壁は低い。

この違いは、男性は理性や信頼のような継続的で重みがあり硬いもの、女性は感情のように揺れ動き流動的で刹那的なものを愛と呼んでいるということなのかなと思う。

男性が不倫相手を本当に愛しているけれど離婚しない、というのは実在すると思っている。やるために愛しているという嘘をつく男はくだらなすぎるからさておき、noteを見ていて体の関係がない不倫未満の関係があったり、二人の間に交わされる言葉や重ねる時間、濃密な空気そしてクラクラする甘さにそれは愛でしかないと感じる。
この愛は女性の愛に似ている。
出会った順番というけれど、そもそも質が違うんじゃないだろうか。

逆に女性の愛も継続的なものはあるよ、とおっしゃる方もいると思うが、それは情とか母性とか同志とか家族愛とかいう言葉に近いような気がする。
ここでいう愛はあくまでも恋愛とか男女の愛ということを指す。

ここで男性の「結婚」もやはり女性のそれとは違うのだと思った。
結婚という囲いの内側は、もう自分なんじゃないかというくらい近しい。
囲いの内側にだけ、責任が生じる。
だから、この中に入れるものを厳選するときの男性は潔癖で、貞操や経済観念とかを求めたりする。
個人的な価値観が合うことが重要で、なによりも安全で自分に優しいこと。
本命は結婚を意識するのでこの基準と同じ系統のものが求められる。
「俺のもの」所有物という本能に近いもの。
寝て起きてご飯を食べるだらしな〜い自分でいていい気を使わない場所。
だから、そこにいる奥様は空気かもしれない、それがちょうどいい。
刺激は必要なくて、変わらないものを閉じ込めておく場所?で、そこはいつも平和でなくてはならない。
懐?という言葉が近いのかもしれない。
そもそも内側なのだから別れる≒「離婚」という概念があまりないのだ。

愛人を「囲う」という表現がある。
こういうことなのかな、と思うのだ。

囲うひとはそこを背にして外で戦うんだろう。
戦いの量と囲いの中の広さは比例するのかもしれないと思ったりする。
守ろうとするとき、そのひとは強くなれる、そのための囲いかもしれない。
だから、囲いの中のひとには背中しか見えないのだ。

でも、かつての愛人と現代の不倫や浮気のお相手は違う感じがする。
現代のお相手は外にいるひとな気がするのだ。
外にいるからこそ純粋な愛情を持ったり、欲を追求したり、素直に優しさを向けたり、様々な刺激や変化、感性を味わい尽くすことができる気がする。
心をそのまま渡すことや、生の自分をそのまま見せること。
そのひとは責任を持たない代わりに、対等であれる。
なんとなく義務や責任は純粋さを奪う、気がする。
社会性は個人を殺すときもある。

いいとか悪いとかではなく、ひとりの人間の持つ様々な欲求を賄うのにひとりの人間では足りないというただそれだけのこと。
責任というのは限りがあり、対等ではないのかもしれないこと。
責任というのは、本能的ではなく社会的な性格を持つものであること。
ひとというものは社会をはみ出る。

ただ、こうやって書いていて気づいてしまった。

責任というのは重く、大きな力を生み出すし愛の一種だと知っている。
けれど、わたしが欲しいものとは違う。
責任という檻の中にひとりの生を封じ込めることは無理なのだと思う。
その檻が愛や優しさでできていたとしても、わたしは自由が欲しいし尊重されたい。

残酷な世界で傷ついたとしてもひとりで立ちたい。

それに責任を取ることは不可能な絵空事だ。
娘が傷ついて両手を失ったとして、代わってあげることはできない。
行きたい大学の受験を代わってやることもできない。
実際のところ、ロマンでしかない。
長々と書いたが、救いようのない結論だった。

それでもロマンに憧れている自分を奥に追いやって強がってみたり。

それに。
宇宙人も同じで、もう一人で歩きたいんだろう、転んだら手を差し伸べるだけでいいんだろう、きっと。
その方向に何が待ち受けていようと、見守るしかないのかもしれない。

それはコントロールするより勇気がいることだ。
傷つくかもしれない場所へ送り出すことを覚悟するのはつらい。
代わってあげたい、だけど、それは娘の人生の主役から娘を引き摺り下ろすことだとわたしは知っている。
宇宙人を信じること、それがわたしのできる唯一のことだ。

親の責任より、神様から預かった宇宙人のありのままを信じる。
もう、ちゃんとしない。コントロールはしない。
わたしからではなく、宇宙人はもう外で学ぶのだ。

こうして、腕の中にいた子が少しずつ手から離れていく。
親も9年生だ。
あっという間だなぁ。

今日もおつきあいくださりありがとうございました。
最後まで、いや途中でも読んでくださったあなたに心からのハグを。

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