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あたりまえから感じる「圧」

こんばんは。id_butterです。

わたしは、少し前からスピリチュアルについて書いている。
理系大学出身で、理屈っぽくて、疑り深いわたしだけれど、信じざるを得ないことが起きたからである。

けれど、それだけが理由じゃない。
これからは、生きていく上でスピリチュアルのリテラシーが必要になると思っている。今までは限られたひとにしか関係しなかった、けれどこれからは変わっていくんじゃないかと思っている。

これから起きていく色々なものごとは、科学あたりまえで理解しようとすると理解しがたい。そうしたときに、スピリチュアルの知識で説明するとすんなり理解できる、たぶんそうなる。今すでにそうなっていて、加速する。
別にスピリチュアルだけを信じる必要はないし、疑ってもいい。
けれどスピリチュアルというだけで毛嫌いしたり食わず嫌いして、「不思議」として終わらせることは、逆に自分の可能性の幅を狭めてしまう。
世界が、そう変わってきている。
なぜそう考えたかについて書く。


最近わたしの中で一番変わった概念は、「信じる」ことについてだ。
そこから派生する、「約束」「信用」「保証」そういったことすべてについて、考え直さざるを得なくなった。

この体験が、わたしの概念を変えるきっかけになった。
姿も形もない何かを唐突に信じなければいけない、そう思ったことだ。

信用は、時間をかけ積み重ねた結果に得られるものだ。
履歴書の構成を見ればそれは明らかだ。
どこで生まれたかから始まり、通った学校や働いた会社、資格その全ては、能力とは別の信用というスコアに置き換えられる。
そのあとは減点方式だ。
完璧であったとしても経歴が途切れていれば、スコアは減点される。

父親から言われたことがある。
「家族を捨てるのか」と責められたのち、父親はこう言ったのだ。
「今まで誰のおかげで生きてこられたと思っているんだ。親がいないと信用されない、いるから生きていけるんだぞ。」

まぁつまりそういうことだ。

ここまでいやな感じで書いてきてしまったが、もちろんメリットはある。
昨日の続きの今日があり、同じように明日が続いていくと信じること。
その考え方は安心感をもたらす。
結婚という約束とか、社員という雇用制度とか、年金とか保険とか。

けれど、本当はこれだけではひとを判断するのには不十分なのだ。
あたりまえだけれど、性格や行動パターン、嗜好や宗教観、生育歴、体格などがそこにはデータ化されていないからだ。
そういう、見えるもの見えないものすべてがごちゃまぜになって、目の前のひとがそこにある。
だけど、自分の目の前に、すべてはある。世界も同じだ。

わたしは、それ今目の前にあるものを信じることにした。
自分の感覚でそう判断した。

あの体験のとき、わたしは自分の中にいる存在ひとについて何の知識も持たなかった。
名前も性別も年齢も住んでいる場所も経歴も、顔すらもわからない。
そのひとがおそらくわたしにとって大事な存在であること、そしてそのひとに愛されていることだけを唐突に理解し、混乱した。
そして疑えば、その感覚は波のように消えていってしまう。

今、決めなくてはいけない。
このひとを信じるかどうか。
根拠は自分の感覚のみ。
そんな状況に追い込まれて、わたしは目の前のひとを信じることを選んだ。

かくして、わたしは「信じる」ことについて考えをシフトした。
今まで頼りにしてきた「信用」から、自分の感覚を基礎とする「信頼」へと舵をきる。

それは結局のところ、他人とか世間より、自分を信頼することと同義だ。
今まで信じてきた信用を構成する「氏素性」「学歴」「評判」「実績」という過去ではなく、自分が感じた今の気持ちや見る目を信じて優先すること。
口コミだって他人の感じた評価の集合体なのだから、実は大差ないのだが、なぜかわたしは自分の見る目を信じてこなかった。

一番の違いは、失敗したときに自分のせいになるということだと思う。
目の前の誰かを信じてお金を騙し取られたら、それは自分の責任だ。
自分を信じることは、最終的に自分の人生の責任を取るということに繋がる。
けれど、それは今までだって同じだった。
誰かの評価や過去の実績という信用を基に信じ騙されたとしても、お金は戻ってこない。お節介を焼くおばさんに責任を取ってもらった覚えはない。

だったら、一緒では?

それなのに、なんでこんなに今まで自分の人生を何かに明け渡してきた依存していたんだろう。気づいたら、逆に不思議な気持ちしかなくなった。
自分の立っている床が鉄筋コンクリート製だと思っていたら、実は豆腐でできていたみたいな。洗脳が解けるときってこういう瞬間なのかもしれない。


かつて、昨日の続きの今日があり、同じように明日が続いていくと信じていた。
けれど、それは真実じゃない。
今はこの瞬間しかないし、明日は今日の続きではない。
このわたしは今にしか存在しない。次の瞬間のわたしはさっきのわたしに囚われない。変わることは普通であっていい。
新しい何かが常に生まれているのだ。
慣れないけれど、まだ落ち着かないけれど、信じるのが怖いけれど、それが事実だった。

一昨日の朝、コーヒーは美味しかった。
昨日の晩も、美味しかった。
けれど、なぜか今の目の前のコーヒーは泥みたいな味がするのだ。
コーヒーも水も変わってない。
わたしが新しくなった。

3年前、どんなにごはんを減らそうが体重は減らなかった。
2年前、運動をしたいなんて思わなかった。
けれど、今は毎日夜に散歩をすれば楽しく、体重は15kg以上も減った。
たぶん、前のわたしとは別の人間なのだ。

思い込みあたりまえは自分を縛る。

唐突に思う。
今の自分が、どんな明日を望むか。
ただ、それだけでいい。

受験生の時、医学部を目指していたけれど、成績とコストからあきらめて、医学ではない理系大学に進んだ。
数学も化学も物理も好きじゃなかったけれど、しょうがなかった。
わたしは母にどうしても言えなかったのだ。
「もう、お医者さんになりたくない。」
シュバイツアーに憧れ小さなわたしがほんの数回だけ言った「お医者さんになりたい。」という一言を母は娘の夢として10年以上繰り返し続けた。

大学デビューとか、そういう言葉も同じかもしれない。
昨日までのキャラクターを壊すことは、抵抗を受ける。
昨日のまま今日を過ごし、明日を続けていきたい周囲の人間は、そのひとにそのままでありつづけることを強制する。
都合のいいひとのままでいて欲しいからだ。

同調圧力ならぬ、慣性あたりまえ圧力。
「継続は力なり」は真実かもしれないけれど、「好きこそものの上手なれ」だって真実なのに、世間は前者ばかりを贔屓している。
「重い腰をあげる」という言葉もあるのに「石の上にも三年」がやたら尊ばれる。

圧力を感じている、ということはそれは真実じゃないということだ。
圧力は嘘を覆い隠すために存在する。嘘でないなら圧力も必要ない。
みんなが合意する嘘に協力し、圧力を作り出しているのだ。

圧力を好まないわたしは、自分の中の「誰かの思い込みあたりまえ」を排除しないといけない。
これは、スピリチュアル界隈では「ブロック」の解除といわれるものだ。
ヒーリングの周りをウロウロしていたら、いくらでも出てくる。
お金のブロック、人間関係のブロック、、、

だけど、これはスピリチュアルに止まる特殊なものではなくなってきた。

昨今、世間でも同じことが起きていると思っているからだ。
20年前、教科書に書いてあることを覚えても、将来役にたつかどうかはわからない、そう大学の先生に言われたことがある。
研究はどんどん進み、内容はアップデートされていくから、今日学んだ知識あたりまえがそのまま10年後に使えるかはわからない。
10年前と同じ今日が来るとは限らない、それはそうだとその時思った。

けれど今は、もっとそれが早くなった。
昨日の知識あたりまえが明日には役に立たない、そうなることだって想定内となった。
つまり、今日と同じ一日はないし、明日は今日の続きではない、それが共通認識となりつつある。
メッキが剥がれてきているのだ。
病によって、昨日と同じ明日が保証されないことを思い知らされた。
あえて誰かが剥がしたのかもしれないとも思う。

常識あたりまえもひとを縛る。
研究者は職業柄、常識あたりまえに縛られてはいけないことを知っている。
10年もつ知識が、1日しか持たなくなることによって、常識あたりまえでひとを縛ってきたということがもう隠せなくなってきたのだ。

こんなのスピリチュアルではない、と思われるかもしれない。
でも、スピリチュアルの全部は広く、もともと怪しいものだけではない。
科学以外、といっていいほどに色々なものを含んでいる。
そして、スピリチュアルの知識が、今起きているよくわからない何かをなぜかすんなりと説明しうるということを言いたい。

わたしは、自分が圧を感じる世界を捨てて、自分を信じる。
それで起きうることに、自分で責任を持つ。
自分ができると信じる。
目の前にある自分の感覚で好ましいと思うすべてを信じる。
間違ったとしても、それすらが必要であると信じる。

なんでかと言えば、前より今の自分の方が好きで、今が気持ちいいからだ。
騙されてもいいと言ったけど、別に騙されたことはない。
お金は余ってないけど、困ってもいない。
いやなひともいない。
責任を持つといったけど、別に問われるようなことが起きたこともない。
失うものはあったけど、なぜか驚くほど執着がない。

抵抗する、ということはそこに何かがある。
その理由を知ることは、自分を知ることだ。
と前の自分に言ってあげたい。
そう思いながら、これを書いている。

今夜も意味のわからないことばかり書いた。
5年後くらいに見返してみたら、よくわかるかもしれない。

わたし:すきなひとは?
5歳(地球人):すだまさき。
わたし:なんでフルネームわかるの?
5歳(地球人):ドラえもん歌ってるから。


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