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感覚と経験

ラジオ感覚で話をきかれていた人

「すずめと別の人が話してる時、ラジオ感覚で話聴いている時があってその時すずめの話めちゃ面白いんだよね」みたいなことを言われた。私は冗談を言うこともないし、人を笑わせる才能も多分ない。てかラジオ感覚で話聞くと面白いってどう言う感覚…?自分は経験したことがなかったのでわからない。
すずめが死ぬまでに叶えたい夢はオールナイトニッポンに出演してお話しすること。地元のラジオでいいじゃーんって言われたけど、いやいや、私は日本の夜の時間を離れた多くの場所で共有するあのラジオ番組で色んな人と繋がってみたいのです。

合奏で合う感覚≠共鳴する感覚?

自分の研究内容について外部の人に話す機会があった。質疑応答や、その後の議論で思ったのは、複数人での演奏が合う時のあの感じ、あの言葉にしづらい現象をどうにかわかりやすく一言で人に説明できたらいいのにな…ということ。
あー!あれね!とみんなになってもらうにはまだ時間が必要だ。
共鳴についても議論があったけど、もしかしたらあの感覚を自分はそのように定義づけているだけで、他の人にも理解してもらうにはもっと別の言葉を使うべきなのかもしれない。でも、長く深く話してその感覚を理解してくれる人とそうでない人がいる。
共感とは2つあると思っていて、1つは自分も以前にその感覚を味わったことがある(経験している)から心を通じて理解できるパターン。もう1つは話の中から想像して、経験したことはないけれど深い想像力でその人の置かれた状況について理解するパターンがある。私が共鳴する感覚だと思っている合奏が合う時のあの感覚は、前者のパターンでの共感になると考えている。これまで共感を示してくれた人も前者のパターンだった。
それじゃあ音楽やる人しか理解できないってこと?と言われるかもしれないが、そうではない。音楽の合奏における感覚。義務教育の段階で本来多くの人が経験するはずの感覚ではないか。

合奏・合唱って音楽の授業でやるけど、あの感覚が通じないのは音楽教育の現場でそれが伝わりづらい環境・方法で指導しているからだと思う。音楽は自己表現の意味だけのために義務教育として行われる学習ではない。

他者と一体となれる感覚は音楽を通して学べるものだと思っていて、それは音楽だけじゃなくて生活におけるコミュニケーションとかの側面で重要な感覚な気がする。人として生きるのに大事だと考えられるから、義務教育段階で音楽の授業があるのではないだろうか。

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