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「いいね」がないからって価値がないのか?

SNSは、見られているということが可視化されていて数値化もされている。多くの方に見られることに意味があると言われている。確かにチラシや看板よりデジタルの世界は数字で読み解くことができる。確か必要だ、でも。

※新型コロナウイルスに関係する内容の可能性がある記事です。と注意書きがついていますが、それに関して何も触れていないです。何のワードでついてしまったのでしょうか?

「勘のチカラ」を信用している

世の中には勘の鋭い方が存在している。どの世界にも通用する方もいれば、ニッチな世界で発揮される方もいる。もちろん、日常生活でも。

一夜にして注目の人になることがある。それがSNSだ。

素敵な言葉だったり、あるあるだったり、大喜利力だったり、発見だったり。誰かに見出されたり。

興味があるので過去の発信したものをチェックすると、たまたまのこともあれば、誠実な人柄だったり、派手な立ち振る舞いができる方だったり、まわりの反応も含めて拝見すると色々みえてきますね。

反対にこの方は後に注目の人になるだろうと思って、見にいくことがある。そういう方には同じように考える方が集まって応援しているのがわかります。フェイクの人格からこぼれた人柄にはまってしまうのだ。

分析ツール中心で代行運用している方には真似できないことだろう。と思うこともありますが、戦っているレイヤーがそもそも違うのだから、比べることが間違っているのでしょうね。

手ごたえが出てくると独自の魅力が増してくる

Twitterは文字中心の世界だ。1週間ウォッチングしているだけで変化を感じる。一緒に戦ったり、仲間だと思っていると違うステージにいってしまうこともある。寂しくもあり、当然だ!私の「推しメン」は素敵なのだ!となぜか鼻息荒く自分の手柄みたいに誇らしくなったりします。他者はこれだけ勝手なことを考えています、自由にするのが正解なのでしょう。

過去に作ったロードマップを思い出す

他者と比べて自分を見失いかけたら、過去に作ったロードマップを見返す。仮説で行動すると間違えることもある。でも「勘」は間違っていないことが多いです。分析の段階でアプローチを間違えているだけだったりする。大事なこと、本質を見つめ直すとうまくまわりだします。PDCAOODAを何度もまわすのだ。


PDCAとOODAについてはこちらをご覧いただくと勉強になります。


「いいね」や何らかのアクションをするのには、鍵がかかっているアカウントでない限り、何らかの看板を背負ってやっている方の感情が動いたことを表明する行為です。だから「いいね」はつけられていないけど、感情は動いていないとも限らない。

同じことを書いていても、表現を変えるだけで「いいね」がつくことが証拠です。だから、数字に出てこない価値を自分で勝手に測ってはいけないのだ。

さて自分が発信したものを他者と比べて分析すると、あまり「いいね」がつかない理由に想像がつきます。そもそも、遠くにボールを投げているからしょうがないなどと言い訳をしたくなりますが、言い訳と書いている時点で誠実さに欠けますね。これからの課題です。無理をしない運営という意味では、今はこの距離感が正解ではないかとも思っています。

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