光ってる人ズ

「凸凹さんには突出した何かがあるってよく言うじゃないですか、あれってどう思いますか?」

私は日々、突然質問しては誰もを困らす星の人だが、このときは聞いてから、しまった!と思ったし、代表の奥さんは私をぎゅっと見て言葉を探していた。
なんとなく、初めてされた質問じゃないんじゃないかという気もした。

「そうね、キラリと光るものって凸凹さんに限らずあらゆる人にね…それはもちろん、定形の人にもあるのよ。
そんな中で、できない事にばかり注目されがちな彼らだから、なおさら目を向けてあげなきゃとか、光を当ててあげようって、そこからその言葉が生まれたんじゃないかしらね…」

「光るもの」は凸凹さんだけの特権かと思っていたけど、というか実は、思っていたかったんだけど、きっとそうだよな…
なにやら自分が恥ずかしくなって謝ろうとしたら、代表も口を開いた。

「定形さんはさ、これじゃないとってモノがないからね。反省を繰り返すってこともそれほどしないでいいから、なんとなく全部できて、なんとなく就職して、一部は昇進して、なんか違うけどこれでいいかぁ…って、ほとんど開花せず暮らしてくんだよね。
その点、凸凹さんは空気を読まない。他人と同じ道を選ばない。
会議そっちのけで狩りに行くから、稲作以前は存在が重宝されてきたって説もあるんだよ」

つまり、凸凹さんが生き物としての道を作り、定形さんが社会を作ってきた。
人生といえば社会、というのが主流になったから、道徳とされるものを乱して手柄とか、ヒーローになりにくい時代になった…ということだと思う。

話し込む数メートル先で、何時間もトンカチトントンしてるトンカチ君がいた。
彼はクラスでいちばん叱られてるのだと、彼のクラスメイトから聞いたことがある。

「光るもの」の存在は、ほめられる。親もほめられる。
でもそもそも、本人にとって、ほめられるのってそんなに素晴らしいことでもない。

「凸凹さんの光るもの」なんて、考えてみれば、凡人からみて光って見えるだけで、当の本人たちは飛び出ちゃったに過ぎない。
制止を振り切って好奇心に飛びついたに過ぎない。

プラスもマイナスも、評価はいつだって、後から他人によってつけられる。
そんないい加減で勝手で揺らぎやすいものが、子どもの土台であっていいはずがない。

この子たちは、「この子たちだから」素晴らしい。「サヴァンを持つから」素晴らしいではないのだ。

こんなに偏った質問にも真摯に答えてくれた代表たちは、子どもをほとんどほめず、ほとんど叱らない。なんならそれほど話しかけもしない。
フラットな扱いを、子どもたちはそのまま「信頼」と受け取るらしい。
子どもたちは「いいものを作りたい、誰の評価もいらない!」の結果を、うまい具合に取り出していた。

誰のためでもない「何か」が出来た時、本人の中にある「やったぞ」が光っていれば、本当はそれだけでいい。
「自分って最高」、そんな根拠のない自信が、自分と人生をつなぐ根っこになる。

みごとな「何か」を作ったトンカチ君は、満足そうな顔をして見せに来る。
代表たちは、「何を作ったの?」「すごいねぇ」とは言わない。

「わあ、出来たねえ!」と目を細めるのだった。

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