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裸の湖とジェンダー。


 こんにちは。
ついに約1年間のプログラムが終了しました。卒業式みたいな概念はヨーロッパにはあまりなさそうなきがするのだけど、いわゆる卒業のための3日間のキャンプに行ってきた。(キャンプに始まりキャンプで終わるのとてもベルリンらしい)


 この1年間がどうだったのか?という話はまた別のところでするとして、ほぼ2年ヨーロッパにいるけれど久々にカルチャーショックというか今までの概念を覆されたような感覚にであったので言語化したい。


 そもそもベルリン/ドイツには裸の文化が根強いようで、真っ裸になることが許されている場所(ビーチ、湖や公園など)がいくつかある。
先日森に遊びに行った時、マップで湖を見つけたので行ってみたら、年齢性別問わず多くの人が裸で湖の周りを歩いていてかなりびっくりした。デンマークでもたまーに裸で海に入る人をみたり、日焼けのためにブラを外して外で寝転んでいる人を見たりしたことはあったが、
上も下も何も隠さずに人がたくさんいる状況を見たのは初めてだった。
 その時はちょっと居心地悪いなと思った。そもそも水着ですら抵抗を感じる私にとって裸を誰かに見られることはかなり憚られることである。

 泳ぐこと自体は好きなのだ、そしてサウナなんかも本当は入りたい。だけど海や湖やらサウナに行くためには服を脱がねばならぬ。お腹周りや足、胸の大きさなんかを気にしまう。何より私はアレルギーで足に掻き傷がたくさんあって汚い。それを隠さなければならない。見られていることを急に意識してしまって脱ぎたくない。
脱がないなら脱がないでいいじゃないかと思うのだが、海などにいて泳がないで服きたままでいると必ず
なんで海入らないの?なんて聞かれる。それはそれで辛い。
だから夏はちょっぴり苦手だし、海や湖など水辺を極力避けて生きてきた。



 今回のキャンプも水着をそもそも持って行くかどうか悩んだ。ただせっかくのみんなでのイベントなのでみんなと同じように楽しみたい気持ちもあったので、考えた末に水着にタンクトップのシャツとレギンスを持っていくことした。湖には入れるがお腹も胸も足も出さないぞというかたちだ。


 キャンプについてそうそう何人かで湖に行くことになった。あまり時間がないまま出ることになったので、着替えられず、とりあえず一緒に行って、湖入らずに待ってようと思ってついて行った。
たまたまその場には女性しかいなかったのだが、ついた途端全員が真っ裸になってそのまま湖に入って行った。

ちょっとびっくりした。何の躊躇いもなく、そして水着を着たり胸を隠してなんていう煩わしい動作がまるでなく、ただ服を脱ぎそのまま走っていった。
なんだか不思議な感覚になった。



その帰り、1人の友達が私に泳がないのか尋ねてきた。私は今は水着なかったからまた後で入るかもと答えると、泳ぐのが嫌いなのかと聞いてきた。
泳ぐのは好きなのである。
が、何よりも水着になるのが嫌いなのだと思った。
がそれを説明している時に、私は誰からの何を嫌っているのかと思い始めた。

少なくとも今のこのメンバーで、私がどんなお腹だろうと、胸の形だろうと、それを理由に態度を変えてきたり私が私でなくなることはない、そんなところで人をジャッジしない人たちだと私はこの一年で十分知っている。


 何を私は怖がっているのか?


私には見えない目が見えている。
「女としてあるべき体型」ベルリンであろうともいまだに気にせずにはいられない。それほど濃い濃い、ある種の洗脳がなくなってはくれないのだと気づいた。



 その日の夜、もう一度湖にきた。今回は全員でだったので私も水着を用意した。男もいる。
夜にみんなで一斉に水に入った。私はレギンスを履いていた、お腹も隠していた。けれどほとんどの人が上も下も全くの裸であった。

 夜の誰もいない湖は死ぬほど綺麗で、特別な景色だった。


 男も女も関係なしにほとんどが裸で湖で泳いでいる。そのあとも誰が目の前にいようと、裸で歩くしその場で着替えたり、なんなら裸のまま飲んだり会話している人たちを見てたら、なんだか本当におかしい気分になった。


私は何を隠しているのだろうか?と。


何を隠さないといけないのだろう。なぜ私の胸や足やお腹は他の人、特に男の人には見せてはいけないものであるのだろう。


3日間はとても特別だった。卒業会の意味合いもあったから何度も何度もいろんな人とハグをした。
お互いの距離も今まで以上になんだか近くて、誰かの肩にもたれかかったり、膝枕されている人をみたり、、。たくさんの身体的な触れ合いがとても自然に行われているのを見、また私もその一部であった。

 これまでの人生で女同士のそう言った触れ合いはよくあったし、そこには不自然さを感じなかった。が目の前にいる人が男になった途端、触れてはいけないものと思うことの方がほとんどだった。
なぜ、女であればよくて男だとダメだと思うのだろうと考えた。


 私(たち)は男と女が触れ合う時、人はそれは恋愛的もしくは性的な行為があるとその触れ合いからみなしてしまう。それは当事者同士もそうだ。そこから恋やセックスが始まるのかもと思って期待して触る、もしくは期待させたくないから触らない。
私はあまり恋愛というものがわかってないし、得意ではないからこそ、余計にいつも気を使っているような気がする。私の行動にどんな意味をどう感じさせてしまうかわからないから。
また側から見てる人たちも、距離が近いという理由だけであの人たちは付き合っているだの、好意があるだの噂する。

 ただこの考え方は世の中には異性愛しか存在しないという前提で成り立っているということに気づく。
私が友達だからと思って許して触っていた女の子は同性愛者かもしれない。そこに友達以上の何かを感じたくなった可能性はなくはない。逆に男の人が全員私を好きになる可能性があるという前提に立っているのもおかしい。



 日本には裸の付き合いという言葉があるが、まさしく裸の付き合いをした3日間であった。私は最後まで裸になることはなかったが、それでも今までよりずっと近い距離でみんなを感じられるようになって不思議な気分になった。


 男とか女だとか、そうじゃないとか、その人の性別が何であるかは全く気にせずに、ただひとりの人に私もただひとりの人として接することができたような気がした。ジェンダー規範からするすると解放されていくような心地があった。


 誰か人と出会った時、その人が男であるとか女であるとかを判断する理由がどこにあるのだろうか。
その人が「人」であること以上に何が困るのだろうか。


自分の頭の中にはまだまだ女だから、男だからがたくさん残っているような気がする。これまでの価値観を脱ぎ捨てるのは簡単ではない。私はまだ裸で泳いだことはない。そもそも裸を見せ合えればそれでいいという話でもない。だけれども、3日間を通して、私の中でのジェンダーに関するたくさんの当たり前がじんわりと変動していくのを感じた。そして私は人が人としてだけで接することができる社会の方が好きだなと思う。
 そんなことを思うからこそ、少しでもエッセンスを伝えようとこの文を綴ってみたわけである。



 

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