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ラジバンダリ

よく聞かない? 人によって態度が変わるのはよろしくなくて、誰に対しても変わらない態度でいられる人は素晴らしい、みたいな。


そんなことないよね。相対する人によって態度が変わるのって普通だし自然なことだよね。


パートナーの前での自分、友人Aの前での自分、友人Bの前での自分、子供の前での自分、仕事仲間の前での自分、憧れの人の前での自分、気が合わない人の前での自分、、、
全部違う態度の自分であっても何ら不思議はないじゃないか。


自分という漢字はさ、「自」を「分ける」と書いて自分なんだぜ?
自らを分けて自分となる。人によって違う分けられた自がでてきても何ら不思議はない。

これに気づいたときはすごい発見をした気分になった。


誰しも、自分というものを認識するときは、自分を何かしらの観点で分割したうえでイメージしたり言葉にしているはずだ。
なぜなら、己(わかりにくくなるので以降、自分のことを「己」と表記する)を捉えようとしたときに、己の全てを捉えることはできないからだ。

己というものをマルッと明確に捉えて表現してみよ、という問いに答える術を私は知らない。

例えば、私は□□商事で経理業務をしているX歳の男だ、と言ったとする。これは単に、何の仕事をしているかという観点で区分して、年齢で区分して、性別で区分して表現した己の一側面に過ぎない。

己というものは、区分(分割)しないと認識すらできないのだ。
逆に言うと、己というものを認識したときに既にその認識された何かは己の断片でしかない。

そんな捉えどころのない己が、いつも一定で不変である方が不思議じゃなかろうか。


自分ってやつは不思議だ。どこまでいっても捉えきることはできない。
他人を捉えきれないのと同様に。

そう私は思っている。

そこに面白みが詰まってると思っている。


あー、そうだった、

人によって態度が変わる変わらないを入り口に書き出したんだったっけ。

まぁ、人によって態度が変わる方が自然だと思うけど、結局人によって態度が変わろうが変わらなかろうがどっちでも良いよねぇ。どっちが良いとか悪いとかではないよねぇ、と思いますわ。


そんなことより、この人の前ではこんな自分になるんだなぁ、としみじみ感じてみたりする方が面白いんだなぁ。

意図的に快活であると装おうとする自分に気づいたり、意図せず無意識で自分を強く大きく見せようとしてしまってたり、弱さをみせたりする自分に気づいてみたり、ラジバンダリ。


自分を知っていくと他人のことを深く知ることに繋がるし、他人のことを深く知ろうとすると、自分のことを知ることになったり。


おもしろいよね。


じゃまたね

いべ





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