♯12 耳管開放症という障害。

引っ越し、新生活。

当時の大人の事情はわからない。
ただ小学校に入るための入学準備をし始める頃に、母が近所に出来た大きいマンションの見学に一緒に連れて行ってくれた。

新しいおうちだよって。

一緒に住んでいた男の人は今までの家に。
完成したマンションには私と母、祖母と、祖母と一緒に住んでいた人と。

私の祖母は少し、いやだいぶ変わっている。
変わっている、って言葉で片付けたくないほどにはネジが何本も抜け落ちている。

私が病院にひっきりなしにかかっている事に対しても、こんなに不憫で可哀想な子と泣き始めたかと思えば、このツンボがと喚き散らし真夏に水も飲ませてもらえず一人で動物園を歩かされたり。

私の中では今だから、笑える話に持って来れているだけだ。
これが他人の話として聞いたなら、流石の私も困惑を隠せないだろう。

祖母と一緒に住んでいる人は私が生まれる前からいた人。
今の私にとっても、当時の私にとっても数ある親戚の中で唯一の身内だと思っている。


遠くの親戚より何とやら。

お金はかけてもらった。
便宜上祖父と呼ぶが、そう、祖父にかけてもらった。
ランドセルも、病院帰りのご褒美も母か祖父で。

恥ずかしながら私はいい年になるまでツンボが差別用語だと、人に言ってはいけない言葉だと知らなかった。

ツンボにビッコ、おいビッコ。
聞こえてないのかこのツンボ。

何ページか前の記事に書いたが骨折の影響で足が見てすぐにわかるほどの左右差があった。
だからビッコ。

当たり前に言われる呼び方だったから特別気にしたこともなかったし、ちょっと嫌なだけでそれでも家で遊んでくれる人が増えたくらいの感覚だった。

病院も変わらない。
毎回毎回同じ説明、同じ治療法。

大きく変化したのは小学校一年生になり、新しく出会う人、変わる暮らし。
この一年生の時の担任が厄介だった。

入学式早々名前を読まない、読み間違える。
謝罪もなく笑ってビデオに残ってない?よかったーなんていう人だったのを覚えている。

初めましてのクラスでの挨拶の時はとにかく声が大きい印象。
少しでも小さな声の子がいればろくに名前も言えないのかと怒鳴り、給食の時は声でも出して話そうものなら全員の手を止めて説教なんて当たり前。

私は話すのが病気のせいもあり得意じゃない。
いい標的だ。

何を言っているかわからない、なんでこんな簡単な問題も解けないの、どうして昨日は休んだの、家でどうせ何もしてないんだろう。

もちろんこんな事をしていれば問題にならないはずもなく、半年も経たないうちにクラスの三分の一が不登校、私もそうだ。

PTAも動いた、先生はもう違う人だよ。大丈夫だよ。

じゃあ行きます、なんて言うほど申し訳ないが要領はよくない。
頭も不出来なもので行ったところで今度はクラスの笑い物。

先に言っておこう。
私は小学校の一年から中学校三年までで行った年数は約四年ほどだった。
よくない、決してよくない。
だけれども今こうして文が書けている、打てている、まだ生きてる。

それだけでも、もう良いじゃないか。

私と同じように不登校になり、同じ中学に行ったクラスメイトに一人吃音の子がいた。
当時はなんとも思わなかったけれど、思い返せばかなり酷く重い吃音。
私はそれが病気だと思わなかったし返答も待てた。
恥ずかしながら吃音という言葉を知ったのは中三で、それまではただのその子の癖だと思ってしまっていた。

しかし子供は残酷なもので先生が言っていたからお前は馬鹿なんだ、何言ってるか分からないね、この問題もわからないの?

給食にチョークの粉を先生にかけられていた私は、久々に登校しようものならもう居ない先生の代わりにクラスメイトがかけてくれる。
わざとらしい大きな声で叫んでくる。

母と揉めたが泣いて泣いて、意地でも行かなかった。
ぶっ飛ばされたし外にも連れ出された。
けれど最後も母は折れた。

そして二年生に上がる前にまた引っ越しをした。

こんな事は書きたくないし思いたくはないが、耳管開放症の主な原因はストレスだ。
当時はただの中耳炎と言われていたが、この時から私の今患っている症状は大きく変わらない。
馬鹿でもわかる推測をするならもうこの時には耳管開放症になっていたのだろう。

私は当時を振り返って耐えていたという感覚もないし、あったとしても覚えてないが、きっと生まれて数年ですでに私は疲れていたのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?