ベキ論

多様性について近年よく見聞きするようになりました。それらの語り口調の殆んどに ❝他者の考えかたや生きかたを受入れるベキだ❞という所謂(いわゆる)「ベキ論」が見え隠れしているように思われる。いやいや、ベキ論大好きの私ですし、元来の日本人の感性にあうベキ論とも思っている私なのです。じっさい「ベキ論バンザイ」と叫びたい程の私がいる。私がプランター庭園をしている意味を言えば「ベキ論バンザイの心による」と言っても言い過ぎでない。ベキ論バンザイの心を確実ならしめるために(私の場合は)プランター庭園をやっていると云えばご理解いただけるだろうか。

書き始めてから「これは難問だ」と想った。遊びに夢中になっている子に「火事だ、逃げろ」と教えても、この子は理解できまい。なにせ聴く耳を持たないのだもの。ゲームに囚われている子には難問。危険に瀕している己が子に心を囚われている親の場合もありますね。同様に心を囚われている子に親の危篤を教えるのは難問だし、なにかに囚われているときはどんなに大事な大事な現実の世界も目に留まらない。心ここに有らざれば見れども見えず聞けども聞こえずです。多寡がプランター庭園、されどプランター庭園。プランター庭園と云っても目的は人それぞれに異なるようです。

その上で尚かつ、多様性でしょうね。私にはそう思われます。

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