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舞台「ガーすけと桜の子」 所感

株式会社ワンダーヴィレッジ制作の、標題の舞台(脚本・演出 ポンポンペイン 湯口智行)に自分の好きなアイドルが主演で出るので、3/11夜公演(於 草月ホール)を観てきた。
正直好みの作風では無かったのだが、好みの範疇を超えて、本作についてここだけはどうにかしてほしかったなと思う点を述べる。

あらすじ(ネタバレ含む)

舞台はとある古いアパート。
主人公四季龍之介は就職浪人中の大学生で、作家になりたいという自分の夢を見て見ぬふりして、就活に勤しむポーズをとるも身が入るはずもない。そんな龍之介の前に、ある日突然アパートに突如謎の生き物「サクラ」が現れた。「サクラ」に背中を押されつつ、龍之介含むアパートの住人たちが自分の夢やそむけてきた過去に向き合っていく様を、ドタバタコメディテイストで描く。

龍之介含むアパートの住人達は各々の夢や過去に向き合うことはできるのか?
「サクラ」は実は龍之介が昔買っていたペット「ガーすけ」の生まれ変わりであることが判明してー?!

頭の中にあることを観客に伝えて欲しい

全体を通じて、本作の脚本家及び演出家(本稿では以下「作者」と呼ぶことにする。)は、作者の思い描く世界観を観客に伝えるだけの技量を持っていないのではないかと思ってしまった。ここが個人的に感じた本作の最も残念な点だ。

例を一つ挙げると、物語の最後に、アパートの住人の一人である「ハデスさん」は姿を消し、主人公以外の登場人物の記憶からも消える。だがハデスさんが消えることが物語の進行上何故必要なのか、私には伝わってこなかった。
「サクラ」が消える理由はまだ想像しやすい。物語の冒頭でいきなり登場した不思議な生き物、その正体は主人公の飼っていたペットであり、みんなの夢や心残りを後押しするというミッションを終えたから、無事成仏したのかなと解釈できる。
だが「ハデスさん」は作中で特段大きな役回りをすることも無ければ、実はこの世のものではない「サクラ」との関係性も描かれない。
作者の頭の中にはハデスも物語の最後に消えることで何か描きたい世界観があったのかもしれないが、それが伝わらない脚本及び演出であったのが残念だった。仮に観客に敢えて受け取り方を委ねるために曖昧にしているのならば、なぜ敢えて曖昧にしているのかを分かるようにして貰わないと、余韻を感じることも難しい。

確かに、観客の受け止め方は作者の狙い通りである必要はない。だが、作者の意図が全く伝わってこない場合、何も感じようがないのだ。
この伝わらなさは、自分が就活を始めたばかりの頃に書いたエントリーシートや、塾講をしていた時に読んだ、推薦合格を目指している生徒が初めて書いた小論文に通ずるものがある。書いてる人の頭の中には思い描いているものがあるのだけれど、文章を読んでも他人には何が言いたいのか全く伝わらない、そんなかんじ。企業や大学は、その就活生や受験生が何を伝えようとしてるのか汲み取れなければ、評価のしようがないのだ。

エントリーシートや小論文と違って、舞台においては必ずしも言葉だけで伝える必要は無いが、言葉足らずな部分を補う演出や演技指導があったとも私は感じなかった。

本作の脚本及び演出を担当したポンポンペイン湯口氏は、自身のホームページにおいて、自身の作品を「いわゆる「笑って泣ける話」というシンプルな脚本と「面白ければいい」という思い切りが良い演出に定評がある。」と紹介している。
このような脚本•演出を意図しているのならば尚更、自分の頭の中にあるイメージを、分かりやすく伝える工夫は必要なのではないか。
もし仮にある程度の教養が無いと理解が難しい演劇を作りたいのであれば、それに相応しい物語や演出、音楽や美術、台詞の言葉選び等が求められるであろうが、それらは本作には無かったと個人的には受け止めている。

おわり



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