[短編小説]パレットの上でコーヒーを
「ねえねえ、お願い、コーヒー淹れて」
彼のこの一言が、私たちの夜の始まりの合図。私は軽く頷いて、キッチンに向かう。
彼はテーブルに新聞を広げて、小学生の時から使っている物だという、側面にひらがなで「まるやま はるた」と書いてある筆洗に水を入れた。今日は絵か、と思いながら私もお湯を沸かす。
彼が大学生になってから、もうすぐ3年が経つ。彼は幼稚園の先生になるために、大学で日々の講義に頑張って出席している。
しかし彼は美術が得意ではないため、美術系のサークルに入っていろいろ教えてもらいながら絵やねんどの練習を重ねているらしかった。たまに、自主的におりがみの練習をしている時もある。
「先生がバケモノみたいな作品しか作れなかったら、子どもたちに笑われちゃうでしょ」
と、彼はいつも言っていた。
夜はいつも、ご飯を食べた後に少し休んでから、私の淹れるコーヒーを飲みながら作品づくりや練習をする、というのが彼のルーティンだった。
そして私も、コーヒーを淹れながら熱心な彼の横顔を眺めることで、毎日元気をもらっていた。
カレンダーを見ると、あと3日で私たちが付き合って4年の記念日であることに気づいた。大きな丸がつけられて、隣には彼の丸文字で「きねんび!」と書かれていた。かわいい。
そんなことを考えながらコーヒーを淹れて、彼のところに運んだ。今日はなんとなく、彼と私のマグカップを交換してみた。
作業する君の向かいに座って、何も言わずに作業を見つめる。私が彼の教え子みたいだな。2歳年上の教え子。なんだか面白い。
少ししたら、彼が手をやめてようやくコーヒーに口をつけた。淹れたてだと熱くて飲めないらしい。
「やっぱり、かなみちゃんが淹れるコーヒーがいちばん美味しいよ」と彼が微笑むのを見て、今日一日の疲れは全部吹き飛んだ。
作業をしながらときどき話をする。彼が作業をしているので、話題も芸術系の話題になりやすい。今日もまた、そうだった。
「今日ね、サークルの同じ学科の先輩がね、いいこと教えてくれたんだ。」
「どんなこと?」
「『晴太くんは今、りんごは赤く、牛は白黒に、って、見たままを描いているでしょ。でもね、子供は私たちにはない視点を持ってるから、りんごを黒く描いた子や、牛をピンクに描いた子に、「そこは赤でしょ」「白と黒で描いて」って固定観念を押し付けちゃだめよ。それは、芸術だけじゃなくて、園での毎日の生活から何から、全てに当てはまるけどね。』って。」
「いいこと言うね、その先輩。」
「誰かからの受け売りらしいけどね。」
「なあんだ。」
そう言って2人で笑った。
そうやって話をしながら彼の作業を見つめていた。時計の長針と短針が12で重なったころ、彼は作業を終えた。机の上に乗っていたのは、かわいらしいタッチの動物がたくさん描かれた、なんともハートフルな絵だった。
絵の具をケースにしまいながら彼は私に尋ねる。
「何色が好き?」
「うーん…青、かな」
「そっか、かなみちゃんらしいね」
「晴太は?」
なんとなく晴太は、白のイメージがあった。しかし、返ってきた答えは全然別のものだった。
「鳩の首の色」
「なにそれ、灰色?」
「ふふ、違うんだよ、教えてあげようか?」
「いい、明日、出版社行く時間でめっちゃ鳩探す」
むっとする私の顔を見て、ははは、と彼が笑って、つられて私も笑った。
あと1年。彼が大学を卒業して、無事に幼稚園の先生になれたら、結婚しようね、って話しているのだ。それまではまだ、一緒に暮らすだけ。その「だけ」が、たまらなく幸せなんだけどね。そんなことを思いながら、おやすみのキスをして眠りについた。
このたわいもない日常が、急展開もオチもないコーヒータイムが、ずっと変わらず私たちのそばにありますように。そんな願いを込めて、彼との毎日を漫画にしている。この会話も、漫画にしよう。
彼と私の毎日を綴った漫画は、ほのぼの感が良いらしく、ネットで高い評価を得ている。それを受けて、ついこないだ書籍化が決定した。題名は、「パレットの上でコーヒーを」。
翌朝、出社する途中に見つけたトコトコ歩く鳩の首に、宝石のような光沢のある緑と紫のグラデーションが春の光に照らされて浮かび上がっているのを見て、思わず息をのんだ。
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