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中国の高考(がうかう)と日本の大学入試とアメリカのAO入試

(エッセイ「偏差値教育からアイデア教育へ」から続く)

中国の大学入試統一テストである高考(がうかう)がテレビで話題になっている。テレビで見ると一種のお祭り騒ぎみたいに見えるが、学生にとっては人生を決める一発勝負のようである。これは日本の大学入試によく似ている。インフルエンザの季節に一発勝負を求められる共通テストのようだ。
 
この状況をほくそえんで冷笑しているのはアメリカではないか。つまりこういう入試からは世界を引っ張っていくような創造的な人間は出てこないと。逆に柔らかい脳を持っている立派な高校生を去勢化していると。こういう入試をやってくれている限りアメリカは安泰だと。
 
中国や日本のようなペーパー一発入試は一種のゲームだ。ゲームには必ず攻略法があり、それを見つけていかに速くゴールに到着するかだ。攻略法は基本的に傾向と対策だ。問題には必ずくせや傾向があり、それを見極めないといけない。その手伝いをするのが予備校だろう。日本の場合さらにタチの悪いのが、共通テストだけで済まず大学個別の2次試験を課すことだ。この対策で高校生はさらに去勢化される。対策はもちろんその大学の過去問をマスターすることだ。このような勉強法によって高校生の脳はだんだんパターン化される。将来を担う創造的な人間を大学入試でダメにしているようなものだ。だからアメリカがほくそえんでいるというわけだ。
 
たとえば大学個別の数学の問題は1問を20~25分で解くようなものであろう。しかしこの問題が意外にタフだ。その場で考えていたら間に合わない。過去問で頭の中にしみついているいくつかのパターンを総動員して、いかに早く組み合わせるかだ。これは数学の問題を解いているのではなく、ゲームを攻略しているのだ。実際、大学の数学は入試数学と全く違う。パズルで攻略できない。ニュートンらと同じ土俵に乗らない限り理解できない数学だ。微積分を高校生が理解できるとは思えない(一部のセンスのいい学生を除く)。
 
日本史などは重箱の隅を突くような問題も出る。そうしないとみんな満点をとるからだ。結果、高校生の頭の中は記憶でオーバーフローしそうになる。これも頭を傷つける。
 
ペーパー試験は課す側にはメリットがある。コンピューターで集計結果がすぐ出る。採点に主観が入らないので平等を理由にできる。偏差値でランク付けできるので、A~Fランクの大学の序列化ができる。Aランクの大学およびその卒業生は、永遠にこのシステムが続くことを望む。高校生たちが受ける脳とメンタルのデメリットなどはおかまいなしだ。
 
アメリカのAO(admissions office)入試は理にかなっている。成績と成績以外の側面を同等に評価し総合判定するからだ。高校の内申書は大事だ。日本のように受験に必要ないからと言って、必修科目の世界史の授業をスキップするようなことはしない。アメリカはリベラルアーツ(一般教養)を重視する国なので、あらゆる科目でまんべんなく良い成績を取っておくことが求められる。つまりGPAの高得点が求められる。高校差もあるので全米共通テストもある。日本のようにインフルエンザの季節に一発勝負ではなく、年に5,6回あるらしい。日本でも実施されているようだ。高校1年から何回受けてもよく、大学入試にはハイスコアを提出すればいい。成績面の提出資料は基本的にこの2つだけだ(高校内申書と共通テストの成績)。大学個別の試験はもちろんない。
 
アメリカのAO入試では成績以外の資料のほうがおそらくキーとなる。それは学生の人物像を見極められるからだ。日本の会社の入社試験のように、最後は成績より面接で決まるのによく似ている。提出資料はその人が幼少から高校までどのような人生をどのような考えで生きてきたか、またこれからどう生きていくかの資料だ。自分の考えを主張しなければならない。根拠資料も要求される。アルバイトやボランティア活動などの社会活動は大事だろう。自分の特技を磨くのもいい。なので高校に入ってにわかの対策はできない。この部分の評価は平等という目安はない。大学が求める人間像に合うかどうかだ。こちらの成績以外の対策にアメリカの家庭ではお金がかかるらしい。人物への投資ということだろう。合否の判定には1~2か月かかる。

果たして日本人は高校まで勉強以外に何をやってきているのだろう? 教育基本法の第一条(教育の目的)が言っている「人格の完成」でも目指しているのだろうか?
 
大学に入るとアメリカの単位制度は厳しい。日本のようにアルバイトをしている暇はないようだ。予習復習しないと授業についていくのが大変なようだ。そのためアメリカの大学の図書館は深夜まで開いているところが多い。空調あり、コンピューターつきだ。カフェテリアを備えているところもある。2期連続でGPAが2(満点は4)を下回ると退学勧告が一般的だ。おそらく入学したときの学生の半数ぐらいしか、同じ大学を卒業しないのではないか(一流大学は除く)。落ちこぼれた人は他の大学に移ってがんばる環境や制度がアメリカには整っている。日本の大学の卒業式に熱感がないのは、苦労して学位を取ったという感がないからだろう。日本の大学の学位は海外からよく自動販売機と言われる。アメリカの大学の卒業式は普通Commencement(コメンスメント、始まり)と言われる。つまり人生の出発点に立ったという意味だ。日本の場合、大学に入るのが終着点のようになっている。アメリカの学生は卒業時のGPAのスコアを重要視する。就職に大事だからだ。評点に納得できない場合は教授と直判談をする。日本の大学生はこの大学時代にアメリカの学生に一気に抜かれる。アメリカの大学は勉強に専念するところだからだ。大学院でさらに水をあけられる。
 
サンフランシスコ発のミネルバ大学に至っては奇想天外な大学だ。キャンパスを持たず世界を周遊して授業をするのだそうだ。世界中からインターネットで応募でき、現在入学が最も難しい大学と言われている(合格率1~3%)。日本からはとても出ない発想だ。
 
NHKの「ニュー試」という番組で、イギリスのケンブリッジ大学の実際の最終面接試験を紹介していた。50人中3人しか合格しないそうだ。その面接問題は、「あなたが火星から地球に向けて石を投げた。運悪く日本のビルに当たって一部損傷した。ビルのオーナーが文句を言っている。あなたはどう交渉するか?」というような問題だった。日本では正解のある問題ばかりを解いて傾向と対策を練るが、この問題はアプローチ自体が違うこの問題は正解のない問題にどのように立ち向かうかという、人間力としての総合試験なのだ。我々の実社会でも常にそういう問題に直面しているのではないか。
 
世界の技術(特にサイエンス)を引っ張ってきた歴史を見ると、アメリカはやはり強い。教育制度が大きいと思う。創造力のある人間がよく育っていると思う。先ほどのミネルバ大学もアメリカ人の発想だ。アメリカには病もいっぱいあるが、ダイナミズムがある。底辺が広い。どこからでも新しい芽が出て来るような国だ。日本人は教育のせいで画一的であり、だれが何を考えているか大体分かり、画期的なアイデアが出てくる予感はない。そういう風土もない。
 
GAFAMやエヌビディアのようなアメリカ発のプラットフォーマーに世界は牛耳られている。ITはアイデアの勝負なので、アメリカ発の創造力に負けたということだ。ノーベル賞は日本人も多くとっているが、コンピューターサイエンスの最高峰であるチューリング賞(1966年〜)は日本からまだ出てない。つまりインターネットやAIやプログラミング言語等において、日本発の画期的な貢献は今のところゼロというわけだ。日本ではWindowsやOfficeを引き上げられたらどうするという危機感もない。ヨーロッパには危機感があるし、また頑張っている。プログラミング言語Python(パイソン)はオランダ発、オペレーティングシステムLinux(リナックス)はフィンランド発、アルファ碁を開発したDeepMind社はイギリス発(現在Google傘下)、コミュニケーションツールSkype(スカイプ)はスウェーデンとデンマーク発(現在Microsoft傘下)、リモートデスクトップTeamViewer、AnyDeskはドイツ発などだ。すべて個人のアイデアからの製品だ。しかしアメリカの面白いところは、こういう世界をリードしている自国の会社をアメリカの司法当局が独禁法で訴えていることである(IBM社が長らくそうだった)。なんという自由闊達な国だ。だから次の会社がすぐ出て来る。
 
日本のような受験勉強をしていると、頭がかたくなるだけだ。新しいアイデアなど出てこない。この前のNHKの「ニュー試」ではミネルバ大学の入試問題を扱っていた。問題は「傘の使い方をなるべくたくさんあげよ」だった。番組に出ている2人が回答していた。東大生の人は8通りぐらいあげていたが、似たような回答が複数あった。一方お笑い芸人の女の人は16通りぐらいあげていて、アイデアが全て異なっていた。ミネルバ大試験官の採点は、前者が6/10、後者が10/10の満点だった。お笑い芸人は合格ということだ。

日本の入試制度はまずアメリカを真似て、柔軟な脳で伸びしろのある人を合格するようにしたほうがいい。大学入試システムが変われば自動的に下級教育も変わる。現在の小、中、高の教育は多分に大学入試を先に見据えている。保護者もそれに振り回されているのではないか。子どもたちはせっせと塾に通い、点数をあげることにまい進する。中学、高校、大学の入試が点数評価になっているからだ。点数を取ることが得意な子はこのレースに乗れるだろうが、そうでない子は早々と落ちこぼれる。人間の能力が点数だけで測れないことがわかっていてもだ。特別な能力があっても、人格が優秀でも、現在の入試システムでは評価されない。点数さえ100点であれば人格は悪くても問答無用だ。点数がとれる子はそれなりに良い点もある。大量のデータを少ない時間で処理する能力がある。問題の傾向やパターンを経験則から適格に把握する能力がある。ケアレスミスをしない。時間の使い方がうまい。ものやデータを整理し素早く取り出す能力がある。一言でいえば事務処理能力が高いということだ。しかし一億総事務処理能力だけでは国力はもたない。多様な能力が必要だ。小中学校の不登校数が統計が始まって以来最悪だという。要は学校が面白くないのだろう。点数主義についていけない子が多いのではないか。隠れた能力のある子を切り捨てているようで大変もったいない。大学入試をアメリカ式のAO入試にすると、だれも点数を本気で追わなくなる。点数だけでは合格できないからだ。すると塾に行く子も減り、人間性の切磋琢磨や自分の得意能力の伸長や社会への参加が促されるだろう。日本の子どもたちの社会活動への参加は、海外に比べると圧倒的に少ないのではないか。結果、社会性に乏しい子がそのまま社会に出る。社会と接点を持つことにより、子どもたちの眠っている才能も開花するだろう。大学入試基準にも、このような点数で測れない能力や社会的能力(リーダーシップ、コミュニケーション力、遂行能力など)、そして勉強以外の活動の評価も入れるべきだ。つまり多様な能力を持っている子が大学に入ってくるということだ。事務処理能力だけではなく、多様な能力の総力戦でないと国際競争力には勝てない。IMDが発表している世界競争力年鑑では、日本は1989年は総合1位であったが2023年では64か国中35位である。日本の会社の面接でも、最後は成績ではなく、今述べたような能力があるかどうかを必死で見極めようとしているのではないか。成績は共通テストだけの基本的な学力だけで十分だ。大学に入って本気で勉強すればよい。大学個別の試験は学生の労力と採点する側の労力の無駄遣いで、全く意味がない。このような教育システムにしないとブレークスルーのアイデアは出てこない。ヒットをいくら積み重ねても届かないアイデアがある。ホームランでないとだめなのだ。あと英語が話せなければ話にならない。言語教育をやっているからしゃべれなくていいというのは詭弁にすぎない。どれだけの時間を英語に費やしているのか。べらべらになってもおかしくない。英語教育の失敗だ

日本は失われた30年(1990年~2020年)と言われるが、私は教育が原因と思っている。新しいアイデアから革新が起き、そこから新しい産業が生まれ、そして付加価値のある製品が生産される。結果としてGDPが伸びる。付加価値は新しいアイデアがないと生まれない。固い頭からは付加価値は出ない。長い間ペーパー一発入試を支持してきた人たちおよび維持してきた文部行政の人たちには大きな責任がある。自分たちより能力あるどれだけ多くの優秀な頭脳が切り捨てられてきたことか。国力の大きな損失だ。AO入試に今後100%舵をきるという東北大学にはおおいに期待している。多様な人材を拾い上げ、新にフロンティアを開拓できる人材を数多く輩出してほしい。現在IT分野においてはアメリカに遅れること10〜20年ぐらいではないか。失われた30年はデジタル敗戦であり、アイデア敗戦であり、教育敗戦だったとも言える。教育改革をしない限りこれからもジリ貧を続け、国は衰退していくであろう。


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