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偏差値教育からアイデア教育へ

教育は国力の基幹である。教育は未来創造の基幹である。SDGs遂行のアイデアも教育次第だ。凡庸でないアイデアが出せるかどうかだ。

 本論では日本の教育の改革を訴える。一言で言うと日本人はアイデアが出せない。日本は長らく加工貿易の国だったので最初のアイデアを出す必要はなかった。だれかのアイデアをもとにより良い製品を出せばよかった。このやりかたで日本は1980年代末に世界の頂点にたった。1989年の世界時価総額ランキングで日本の企業はベスト10に7社入っている。ところが2019年では米9社と中国1社で、日本はいない。一体この30年で何が起きたのか?

 欧米に追い付き追い越せの時代は一匹狼のアイデアよりチーム力、協調性がものを言った。この方法でうまく行った特徴は常に目標があったことだ。集積度をあげなければならないという目標のLSI(半導体)、燃費をあげなければならないという目標の自動車、コンパクトにしなければならないという目標の電子機器などだ。目標がなかったらどうだっただろう。

 この時代は偏差値教育で鍛えられた正確さ、スピード感が役に立った。しかし1982年のIBM産業スパイ事件のような悪い前兆も出ていた。日本のコンピューターメーカーの社員らがIBMの最新機の機密情報を盗もうとして米国のおとり捜査にかかり、逮捕された事件だ。

 時代の節目が変わったのが1990年代初頭だ。ちょうどインターネットが普及し始めた時代だ。

 ここから時代はITの時代に入った。組織力より個人のアイデアの時代に入ったのだ。はたして文部省はこの流れの変化を感じていたか。日本では1990年に大学入試センター試験制度が始まり、ますます偏差値教育が激化する。点数評価100%、人物評価0%の試験だ。米国の試験の、学生のこれからの伸びしろを見ようとする総合試験とは真逆だ。

 点数は傾向と対策で克服できる。パターン学習で克服できる。結果、頭の固い大学生を大量生産する。アイデア勝負のIT時代では歯が立たない。ここ30年でGAFAMにプラットフォームを握られたのはアイデアの勝負だったのだ。教育の差とも言える。

 凡庸でない新アイデアを出す能力が必要だ。1から2を作る能力ではなく、0(何もないところ)から1を生み出す能力が必要なのだ。そのためにどういう教育をしたらいいか考えるべきだ。米英の教育制度と大学入試に多くのヒントがある。

(エッセイ「中国の高考(がうかう)と日本の大学入試とアメリカのAO入試」に続く)


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