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”デザイン経営”をどうデザインするか


はじめに


B&H代表の今村です。弊社もnoteを始めることになりました。

企業のあり方に対して深く批判(吟味)することによって「真善美」のバランスが取れた姿勢の良いブランドへと変革する

私たちはそのための戦略とデザインを提供するブランドコンサルティング会社です。広告的なデザインよりも経営学や哲学、文化人類学などのリベラルアーツに重きを置くメンバーが集まっています。このnoteではそんな私たちの思考過程や雰囲気をご紹介していきます。

人間を中心に設計された「正しい」デザインだけではなく、自然や自己表現を取り込んだ「美しい」デザインへ

この実践によって経営はいかに飛躍し得るものなのか、そのイメージをお届けする場となれば幸いです。

今回は第1回目の投稿として、B&Hが日々考えていることの根本にある課題感についてざっくりと触れてみたいと思います。


”デザイン経営”で日本のデザインは良くなったか?


2018年に経済産業省と特許庁が発表した「デザイン経営」宣言。あれから4年経った今、デザイン業界はどれほど変わったでしょうか。CDOという役職への認知は広がってきたものの、着実にデザインを経営戦略に結びつけた成功事例というのはまだそれほど多く出てきてはいないように感じます。

デザインを依頼する側の声としては

  • 「そもそもデザインの必要性がわからない」

  • 「どれくらいどのように投資すべきなのかわからない」

  • 「デザイナーへどう依頼したら良いかわからない」

  • 「どんなデザイナーを採用したら良いのかわからない」

一方でデザインを依頼される側の声としては

  • 「どうしても局所的な解決に終始してしまう」

  • 「デザインの効果を顧客の組織全体に行き渡らせることができない」

  • 「その必要性を上手く伝えることができない」

  • 「個人または組織としてどのように提供サービスを差別化していけば良いかわからない」

現状はまだこのような悩みやすれ違いが宙に浮いたままであるように見えます。業界や規模によって程度に差はあれ、主な原因は組織と広告、この二つのあり方から生じる歪みである場合がほとんどなのではないでしょうか。


”デザイン経営”を阻む組織形態


主な原因の一つに「組織」と述べたのは、デザインの成果を得やすい体制が築かれていないということです。やはり多くの企業ではトップダウン式が主流で、デザインの部門も同様、上流と下流の工程で分けられているケースが多いです。

組織自体が縦にも横にも分断されていて、その枠組みの中でデザインを作らなくてはいけない。そうするとどうしても結局、部分的な課題を解決するデザインで終わってしまう。それを繰り返していくうちに全体の統一感が徐々に損なわれ、ブランドイメージがブレていくという負のスパイラルに陥ります。スピード勝負なスタートアップで規模がまだ小さいうちであれば、ある程度一気に軌道修正することも可能でしょう。

一方で組織の規模が大きければ大きいほど、その抜本的な改善には、予算的にもスケジュール的にもきちんと戦略を立てて進めていくことが求められます。デザイン経営を本質的に実行するにはまず、プロダクトでもパッケージでもなく、実務を担う人たちの環境からデザインしていく必要があるのです。


マスメディアの影に隠れてしまった本質


”デザイン経営”を阻むもう一つは「広告」です。正確には、広告・マーケティング・マスメディアのあり方の問題です。

かつてグラフィックデザインが「デザイン」として存在していた頃は、今ほどテレビが普及しておらず、広告やマスメディアが”権威化”してはいませんでした。さらに遡ると、例えばバウハウスでは、デザインのあり方が議論されていました。作品そのものも含め、デザインとはどのようなものか、どうあるべきなのか、批判的な目線を持って考え語られていました。

戦後は日本においても、亀倉雄策や倉俣史郎といった偉大なデザイナーらが活躍し、社会情勢としては学生運動が過熱するなど、60〜70年代は「主義(イデオロギー)」を問い続けた論争の時代でした。それから音楽ではいろいろなジャンルが一気に現れ、ラジオ、テレビ、インターネットが普及。情報化の波に乗った広告は急速にその勢いを増していきました。

それ以来かつての「デザイン」は忘れ去られ、マーケティングが覇権を握る時代が始まり、今日まで続いているように思われます。この傾向は多くの分野や産業に影響していて、フード、アパレル、生活用品など、ありとあらゆるビジネスで経済合理性が優先されることで、本来のデザインというものは下火になっていきました。

プロダクトデザイン、ウェブデザイン、グラフィックデザインを担うデザイン専業者においても例外ではありません。さまざまな広告賞やデザイン賞を取ることがクリエイターの目的または権威と化してしまっているということ自体、本来のデザインを見失っている証拠とも言えます。

デザインの存在価値に対する認識を皆でつくっていこうという姿勢自体は否定するつもりはありません。ただ、その先を見据えたときにもっと異なるアプローチもあっていいのではと思うのです。

例えば、デザインの真価を発揮して経営を良くしよう、それによって社会を良くしようと本気で願うのであれば、そのような角度から成果を評価するデザイン賞がもっとたくさんあってもいいはずです。マスメディアの勢いがデザインの本質を見えづらくしてしまっている、というのが日本の多くのビジネスの現状です。もちろん情報化や広告の勢いは日本に限ったことではないですし、海外のデザイン事情は完璧ということでもありません。

とはいえ、かつてのグラフィックデザインにあったようなマインドをきちんと保っているデザイン会社も確かに存在しています。そうした会社は大抵、マスメディアの影響力がある程度分散された状況にあることが多いのもまた事実です。これもまた、部分的な解決に終始せず全体性を意識してデザインできる環境が整っているかということであり、整っていないのであれば、やはりそこからデザインしなければいけません。


今この時点で「あ、出た出た、マーケ批判。」というコメントが頭をよぎり、離脱しようとされた方はどれくらいいるのでしょうか。

そうではないという弁明も兼ねて、ここで少し、私自身のことをお話ししたいと思います。


よくある ”マーケ批判” ではない


実はかくいう私も元々はデザイン畑の人間ではありません。大学で興味を持ったのはむしろマーケティングの方で、デザインは趣味としてかじる程度でした。

最初のキャリアは21歳のときに誘われて副代表として立ち上げたITサービスのスタートアップ。それまで学んでいたのもコカコーラやP&Gなどいわゆるアメリカを中心としたマーケティングです。当時はまだGoogleもYahooも登場したばかりでマスメディアが強い時代だったので、そうした鉄板の理論を疑うことなく、デザインを考える場面でも常に経営学や経済学を起点にしていました。

完全に時流に乗っていました。

ところがあるときから頭打ちが見え始め、それではワークしないと感じるように。情報が溢れ、誰でも作れる、マーケティングだけでは差別化しづらい時代に突入しました。

デザインの質が高いのとマーケティングで勝つのとでは売り方が全く違う、それならクリエイティブの質で認識価値を高めるしかないと思い至った末、今の業態へ変化させました。

従来のマーケティング主義が限界に至る原因としてもう一つ浮かび上がってきたのは「美しくないから」という視点でした。実務での試行錯誤はもちろん、書籍から得る知識を通してその気づきは確信へと変わってきています。

結局ブランドの強度が高い企業は、マーケティング主導でブランドを設計していないのです。彼らは「正しさ」というよりは「美しさ」を起点に考えています。これこそが大きな組織のマーケターがなかなか見抜けない、見抜いても納得しづらい部分であり、”デザイン畑からのマーケ批判”という感想が生まれてしまう背景要因なのではないでしょうか。

それではなぜマーケターたちが導き出す「正しさ」だけではブランド価値を高められないのか。なぜ彼らはこの「美しさ」を吟味する視点にシフトできないのか。

その問いへのアンサーとして現在私たちが掲げているのは「批判的な思考」です。これが足りない、もしくは忘れられがちであることが原因ではないかと考えています。批判的な思考とは「アウトローな視点で物事を考えること」、「本当にそうだろうかと幅広い視点から疑い、根気良く吟味すること」と解釈しています。

経営者にはこのタイプが多いです。組織を束ねる立場になると必要な知識の範囲は広がり、そのレイヤーも深くなっていきます。しかし組織に属するマーケターはどうしても守備範囲としての学問領域が広がりにくくなる傾向にあります。その専門性を極めれば極めるほど下図で示した小さい円の中に止まってしまうようなイメージです。

それに対してデザイナーはブランディングから入ってしまっているため、データや心理学などに基づく理論の応用に弱く、共感コミュニケーションにつまずきがちです。これもまたブランディング側とマーケティング側が上手く交われない要因です。

本来この両者の間で繰り広げられるべき議論は、どちらを優先すべきかではなく互いがどんな関係性にあるかです。


数字だけでは結果が出なくなった理由


これもまた時流で振り返ってみます。

マーケティングおよびその学問領域は技術の進歩とともにどんどん数値化できるようになってきました。しかしブランディング領域の学問は今のところ数値化できないものが多くを占めています。

私自身、経営コンサルや全体の最適化をどうするかといったことにずっと向き合ってきました。組織の方向性を決めるには数値で見える化したうえで目標を立てなければいけません。大企業では特にそれが優先されました。経済発展のフェーズ的に必要でもあったのでしょう。

「見える資産」に流れた時代でした。

ところがそれもついに飽和して見えるものだけでは勝負できない時代に。見えない資産についても考える必要が生じ始め、今ではすっかり「パーパス」も定着してきました。

とはいえ、昔は数値化できない価値の追求に取り組んでいなかったのかというとそうではありません。亀倉雄策さんや田中一光さんなど彼らの世代にもその実践者はいました。ただ当時は今ほど数値的に考えていたというよりは、何となくの世間の反応を見てデザインを依頼するという感じだったのではないでしょうか。

今、時代はまさに見えるものに価値を置く「見えること主義」の時代から見えないものに価値を置く「見えないこと主義」に移りました。

私が社会に出た頃はちょうど「見えること主義」が終わりかけていた時代で、キャリアの大半は「見えないこと主義」フェーズへの移行期間であったと言えます。デザイン経営が謳われ始めたのもその流れの一つです。

もちろん今でもビジネスにおいてはデータアナリストのような「見えること主義」側も非常に重要な役割を果たします。そのうえで見えないものも扱うべきだということです。

だからこそここから先は一筋縄ではいかないアートやその手前にあるようなデザインと向き合う必要が出てきているのでしょう。


デザインをデザインし直す


デザインとはそもそも何だったのか、どう向き合うべきものなのか、経営とブランドクオリティにどう紐づいているのか、改めて考える必要に迫られているビジネスパーソンは少なくないのではないでしょうか。

それはデザインの”居場所やあり方”をデザインし直すことと言い換えられるかもしれません。では実際にどう着手していけば良いのか。一つ、私たちなりの答えとして明確になってきているのは「批判を繰り返して軸を築いていくこと」です。組織やブランドはその中心にある軸の強度が高ければ高いほど、規模が大きくても全体性が保たれます。全体性が保たれたうえで広告を打てばその効果もきちんと発揮されます。

「軸」とはその企業が持つ主義と美意識を指し、B&Hでは真・善・美という3つの角度から分析します。そしてその「強度」を高めるためには、主体を主体たらしめる要素を徹底的に吟味し、デザインに落とし込むという意識と仕組みを確立することが必要です。これこそがB&Hが得意としているサポートであり、存在意義でもあると捉えています。

B&Hはこのような課題感を起点に、経営者とデザイナー双方の視点から構造的な問題を整理し、デザインと経営の望ましいあり方を探っています。次回は、B&Hが重視する「批判」を紐解きながら、経営者とデザイナーはそれぞれどのようにデザインと向き合っていけば良いのか、私たちなりの定義や考え方をご紹介する予定です。



Edit by Erika Hosoda


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