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複雑な気持ち、「指導に必要なもの」(「サッカー人として」日経新聞)【サッカー】

日経新聞連載、三浦知良「サッカー人として」より。

一行目から考えさせられる。

その人のもとで仕事をするスタッフが、きまって辞めていく監督がいる。

これ、サッカーというかスポーツだけでなく、一般の世の中もそうですよね。

でももちろん、有形無形の暴力に頼ることなく選手を動かそうとする監督もいる。例えばミーティングでボールのつなぎ方をこう教える。「このエリアに相手は4人、うちは3人。すると空くのはここだ。そこへボールを運びたい。それには一人ひとりがどうポジショニングを取ればいい?」

これもまさに、コーチングですよね。自分が持っていきたい方向があったとして、直接言っても動かなくて、その状態を目指すために、用いる知覚刺激、これをとても大切。

その上で、現実はそのようにいかない物。臨機応変が大事。

行動が嫌がらせにあたるかどうかは、された側の受け止め方、互いの信頼関係次第と聞く。銀座のお姉さんによれば「誰に言われたかによります」らしい。判断が難しいよ。「まだ結婚していないの」と僕が声を掛けたら? ……アウト!

この締めは秀逸だよな。

なんだろう、SMAP(というNo.1の存在が)がオンリーワンと叫ぶウィットのように、キングカズがセクハラ発言(という意味で書いていたとして)をアウト!と言う。

指示待ち人間にはなりたくないが、ビジョンは示して欲しい。自分も然るべき立場になった時に、そのような存在になれるだろうか。

2年前にそうした研修を受けた時には納得した思い出がある、今の時代、混沌としており、また変化が激しい、非連続の中で、人の上に立ち、チームを率いて行く人は、判断で終わらず、決断して行くのだと。

責任ってなんなんでしょうね。何をリスクや、守りに行っているのでしょうか。

カズさんのエッセイからそんなことを考えてしまいました。





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