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ウイスキーでビールを飲む

小説
テーマ『チェイサー』

 彼女から「さようなら」と一言だけLINEのメッセージが届いて、僕がそれに対してどういうことか尋ねたけれど、返信がないまま3日ほど過ぎ、気づいたら彼女のLINEのアカウントが消えていた。

 彼女がいなくなってしまって気がついたけれど、僕が彼女のことで知っているのは本当に些細なことばかりだった。彼女は九州で生まれて、高校まで過ごし、大学進学を機に都内に転居した。彼女とは友人が企画した飲み会で出会い、意気投合し、交際をはじめるに至った。彼女はいくら飲んでも酔わない性質で、いつもビールをチェイサーにウイスキーをロックで飲んでいた。僕も彼女の真似して同じ飲み方をしたことがあるけれど、すぐに酔いが回ってしまってひどい思いをした。彼女はどうでもいいことを面白く話すことが得意で、彼女が見た夢の話でさえも一度も飽きることがなかった。

 僕は彼女と知り合うきっかけとなった飲み会を開いた友人に連絡を取った。他人を介したとしても、彼女と連絡を取れれば安心できる。友人からはすぐに返信が来た。しかし友人も彼女のことを深くは知らなかった。その飲み会にいた別の女性が居酒屋で偶然知り合っただけの関係らしい。彼女は知らない人とでもコミュニケーションをすぐ取れるタイプで、正反対の僕は彼女のそのような点を尊敬していた。次第に彼女の存在に対しての自信が揺らぎはじめる。実体がない感覚。煙のような無形の存在。

 僕は彼女が通っているという大学に行き、校門付近で彼女の姿を探した。行き交う多くの人たちを目を凝らして見分けていく。僕は探偵にでもなったような気分だった。しかし見つかることはなかった。彼女が教えてくれたアルバイト先にも問い合わせてみたけれど、そもそもはじめから彼女は在籍していないらしかった。

 スマートフォンの中に一枚だけ彼女の写真があった。彼女の誕生日に撮った写真で、用意したケーキを手に持った彼女が嬉しそうな表情を浮かべてこちらを見ている写真だ。あまり写真を撮る習慣がないから、一枚だけとはいえ写真があったことはよかった。彼女の知り合いが見つかれば彼女と連絡が取れるかもしれない。僕は写真を大学構内を出たり入ったりする人たちに見せて、彼女のことを聞いた。多くの人はまともに話を聞いてくれたけれど、中にはあからさまに不快な表情をする人もいた。いくら聞いても彼女の知り合い、さらに言えば彼女を見たことがある人さえも見つからなかった。話しかけるたびに精神がすり減っていく感覚がした。比例して僕の中の彼女の存在も霧のように朧げになっていく。

「ついさっき駅前でも同じ女性を探してる人を見かけましたよ」

 ある時点からそのような返答を受けることが多くなった。僕はその人のことが気になって、駅前に行った。雑多な人の中で通行人に声をかけてスマートフォンを見せている男性がいた。特徴のない無地の服を着ていて、髪の毛が短く切り揃えられていてアルミフレームの眼鏡をかけている純朴そうな男性だった。

「すみません」と僕はその男性に声をかけた。男性は僕を見る。

「こちらの女性を探していますか?」

 僕はスマートフォンで彼女の写真を表示させて、男性の前にかざした。

「そうです! 彼女とお知り合いなんですか?」と男性は興奮気味に言った。

「僕も探しているんです。彼女と交際してまして」

 僕の言葉に彼は目を丸くした。僕の言葉の意味がうまく掴み取れていないような様子だ。少しの間を置いて彼は言った。

「言いづらいのですが、僕も彼女と付き合っています」

 次は僕が言葉をなくした。どういうことだろう。彼女は僕と彼と同時に交際をしていたのだろうか。そのような片鱗はちっともなかった。詳しく話を聞いてみないことにはまだ確定しない。

 僕と彼は近くの喫茶店で話をすることにした。メニューに立ち並ぶ様々なコーヒーの名称を吟味する余裕がなく、ふたりとも普通のアイスコーヒーを注文した。

 まずお互いにどういう状態なのか確認することにした。彼と僕とでは状況がとてもよく似ていた。彼女と付き合っていたけれど、突然別れのメッセージが届き、音信不通となった。瓜二つやたらに喉が乾いて、話の合間にアイスコーヒーを啜った。

「知り合ってからどのくらいになりますか?」と僕は聞いた。

「知り合ったのは去年からで、交際をはじめたのはそれからすぐでした」

 彼は具体的に交際をはじめた日時を述べた。その日時は僕が交際をはじめたすぐ後だった。

 彼が言うには、日曜はアルバイトがあるからといつも土曜日に会っていたらしい。平日に会うことはほとんどなかったとのこと。僕は土曜日はアルバイトだからと週末は日曜日にしか会うことはできなかった。しかし平日は割りと会っていたように思う。僕と彼の違いはそこにあった。僕は彼女が僕と彼のどちらにより好意を持っていたのか考えた。僕は少しとはいえ彼女と一緒にいた時間が長いし、土曜日よりは日曜日に会うことのほうが深い理由はないけれど特別に思える。そして平日だって会っていたのだから僕は彼と自分を比べ、少し優位になった。

 彼の格好を見る。個性のない服装。野暮ったいアルミフレームの眼鏡。整えられてないべたっとした髪の毛。

「彼女の手がかりは見つかりましたか?」と彼は聞いてきた。

 ここしばらくの間、聞き込みを続けても成果がまったくなかった。その旨を彼に伝える。彼はあからさまなほどの落胆をして、どうやら彼も同じらしい。

「きっと彼女の言うことはほとんどがでたらめだったんですね」と彼は言う。「アルバイト先も嘘。大学も嘘。すべてがまやかしだったんですよ。彼女は一体何だったんですかね?」

 僕はその質問に答えることはできなかった。

 彼と別れたあと、不意にいつの日か彼女が言っていたことを思い出した。

 人が満遍なく押し込まれた居酒屋の中は熱気に満ちていた。彼女はウイスキーのロックをビールをチェイサーにして飲んでいる。いつもの飲み方だ。僕は彼女に、誰でも思うだろうことを聞いてみた。

「ウイスキーが好きなら、ビールじゃなくて水を飲んだほうがたくさん飲めるんじゃないの?」

 彼女はウイスキーの氷ですっきりとした音をひとつ鳴らしたあとに答える。

「私はウイスキーじゃなくてビールが好きなの」

 どういうことか考えていると彼女は続ける。

「強いお酒を飲んでいるからこそ、ビールの味が際立つのよ」

「そういうものなのかな」と僕は釈然としないまま返事をした。

「私はそういう人なの」

 僕は彼女の言っていることの要領がうまくつかめず、曖昧な相槌を打った。

 僕と彼、本当に優位だったのはどちらなのだろう。ひとつだけわかるのは、どちらも彼女に見捨てられたということだけだった。

著:早尾(https://twitter.com/haya_toma



 

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