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東京グラフィティ

ここが東京だ ここで跳べ

この落書きをとある橋脚に見つけたのは、週末に多摩川左岸をジョギングしている時のことだった。黒いスプレーで乱雑に書き殴っただけのその文字列には、芸術性のかけらも権力への反骨も感じられなかった。それでも、なぜかこの落書きには僕の心に訴えかける不思議な力があった。この落書き犯は、いったい何処からこのフレーズの着想を得たのだろうか。原題のイソップ寓話かもしれないし、あるいは犯人はこの二十一世紀においてなおマルクスを信奉しているのかもしれない。もちろん、そんな高尚なことではなく、ただ単にAKB48のファンなだけなのかもしれない。

イソップ寓話によると、昔、あるところに法螺吹きのアスリートがいた。彼は「俺はロドス島で大跳躍をした。ロドス島の住民に聞いてみれば本当だとわかる」という。だが、この自慢話を聞いていた者が言う。「ここがロドスだ。ここで跳んでみせてくれればよい。」この元はギリシャ語のイソップ寓話の警句は、ヘーゲルの『法の哲学』でラテン語訳が引用された。Hic Rhodus, hic saltus! (ここがロドスだ。ここで跳べ!)。ヘーゲルは、さらに、この表現に少し手を加えて次のようなフレーズを生み出した。Hier ist die Rose, hier tanze! (ここにバラ<rhoden>がある。ここで踊れ<salta>!)。ヘーゲルを信奉していたマルクスは、当然のようにこの警句を引用している。それも、有名な誤訳とともに。『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』では、Hic Rhodus, hic saltaというラテン語に、「ここにバラがある。ここで踊れ!」という対応しない訳が続いている( 日本語訳は、カール・マルクス、丘沢静也訳『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』、講談社学術文庫、22-23頁より)。

 跳ぶべきなのか踊るべきなのかは別としても、この多摩川の落書きも何かの誤訳なのではないだろうか、と僕は思った。法螺吹きのギリシャ人は、少なくともロドスではないどこかで法螺を吹くだけの慎ましさを持ち合わせていたが、ここは東京だ。「俺は東京で大跳躍をした」と、ある男が東京で自慢する。「東京の人に聞いてみれば本当だとわかる。」それを聞いた東京の人間が言う。「ここが東京だ。ここで跳んでみせてくれればよい。」

それとも、この落書き犯は、多摩川の左岸ではなく右岸に書くべきだったのだろうか(多摩川の右岸は神奈川だ)。いや、それはないだろう。ここでいう東京とは、もっと概念的なものだ。極東の高度資本主義社会の中心にして、日本の空虚さの中心。その中心と辺縁は行政的な境界で分けられるものではなく、もっと漠然として曖昧としているのだ。 


秋元康は、アイドルグループのアルバム名としてはいささか風変わりな「ここがロドスだ、ここで跳べ!」というタイトルについて、次のように語ったことがあるらしい。

AKB48のメンバーが"努力は報われるのか?"という大きなテーマに立ち向かっている今、悩み苦しむ彼女たちに、ふとこの言葉を贈りたくなったのです。"努力した"とか"頑張った"とかいう前に、まず、ここで跳んでみようと。

http://7gogo.jp/akimoto-yasushi/4518 

秋元康は、元の問いに答えていない。アイドル達の努力や頑張りは脇へと追いやられ、跳び続けることが、より正確には踊り続けることが迫られる(その意味でもヘーゲルの改変は的を射ていたといえる)。彼女らがどれだけうまくステップを踏めているかは、握手券の枚数という形で可視化され、センターやフロントへの選抜という形で報いられる。でも、それで終わりではない。うまくステップを踏み続けなければ、すぐに次の選抜の時がやってくる。そして、いつかステップを踏む足が止まってしまったら?その時は、「卒業」という美化された名前の花道が用意されている。

完成されたシステムだ、と僕は思った。彼女たちは交換可能なパーツのようにみえる(実家に帰ってテレビを見ている時に乃木坂46が出てくると、親は「全員同じ顔に見える」という)。だが、それと同時に彼女たちにはそれぞれのストーリーが与えられ、その微妙な差異が人々を消費と競争へとかきたてる(皆さんにだって、推しメンの一人や二人はいるでしょう)。大量に複製されたCDにはもちろんアウラは存在しない。内容だって、村上春樹の小説の主人公なら「ゴミのような大量消費音楽」というに違いない(ノエル・ギャラガーも全力で同意するに違いない)。だが、それは握手券を通して、生身のアイドルと触れ合う時間という極めて個別的でオリジナルな、アウラをまとった経験に転化する。二十一世紀の高度資本主義社会では、すべての個人と商品はデータ化され、差異化された複製となる。このような商業芸術の一つの到達点は果たしてベンヤミンの想像力の射程内にあったのだろうかと、僕は多摩川の河川敷を走りながら考える。川べりのグラウンドでは、高校の野球部が大声を上げながら練習試合をしている。ボールを打った金属音。少し離れた堤防の傾斜では、アイドルでも何でもない普通の女子高生が真剣にボールの(あるいは特定の誰かの)行方を目で追っていた。


僕は村上春樹の熱心な読者だが、一番好きな小説を選べといわれれば、迷わず『ダンス・ダンス・ダンス』を選ぶ。それは、ストーリーの魅力もさることながら、僕が高校まで生まれ育った札幌が舞台の一つとなっていることが理由だ。札幌の街中にあったおんぼろな「いるかホテル」は、大資本の力によって高級ホテル「ドルフィン・ホテル」に建て替わる。ドルフィン・ホテル建設にあたっては、投資収益が緻密に計算され、政治家や行政への根回しは完璧で、その筋の人間も動員される。しかし、その最先端のホテルは黴臭い暗闇を抱えていて、その暗闇の中では羊男という奇妙な男が、主人公がやってくるのを待っている。

現実の札幌には、いるかホテルもドルフィン・ホテルも存在しない。けれども、この小説からは確かに、高度資本主義の力学によってサニタイズされていく札幌の街並みが伝わってくる。東京にいてもロンドンにいても、この小説を読めば、札幌駅前通を取り囲むオフィスビルや高級ホテル群と、そのどこかにあるドーナツ屋から漂うコーヒーの香りを思い浮かべることができる。結局、力のある作家の凄さというのは、こういうところにあらわれるのだ。僕はそう思うと同時に、羊男が暗闇の中を訪れた主人公に対して語った言葉を思い出す。

踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。

村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス(上)』、講談社文庫、164頁

 『資本論』の中でマルクスは、貨幣が資本へと転化するにあたり、ロドスでの跳躍の必要性を説いている。だが、成熟した高度資本主義社会ではそのような決死の跳躍は不要だ。ドルフィン・ホテル建設のように、資本投下の多くはMBA卒の現代資本主義の傭兵たちによってそのリスクとリターンが緻密に計算される。幅跳び選手は、デューディリジェンスという名の下、その身体能力から日々の行動までが精査される。だから、跳ぶ前から跳べるかどうかがわかるのだ。一方で、世の中にはリスクが十分に精査されていない投資も山ほどある。起業家は、時には、手堅い跳躍をした実績よりも「俺は東京で大跳躍をできるのだ」と言い切る自信こそが求められる。いずれにせよ、資本家は洗練された手法によってポートフォリオ・ベースでリスクを管理し、コントロールされた形で利潤をあげる。資本家は跳躍しない。ただ、軽やかに踊るだけなのだ。


僕が大学生活を送っていたころ、世の中は1990年初めにバブルが崩壊して以降で、初めてといってもいいような好景気の中にいた。2007年春。某メガバンクが投資銀行宣言をし、経済誌がゴルディロックス相場の継続をもてはやし、FRB(アメリカの中央銀行)が巧みな金融政策運営による「大いなる安定 (the Great Moderation)」の到来を自賛していた、すべてが牧歌的な頃だった。金融業界やら不動産業界やらに就職したゼミの先輩たちは意気揚々としていた。そうした先輩たちの誘いがなければ、僕は当時の恵比寿や六本木や麻布十番の雰囲気を味わうこともなかっただろう。2007年の夏には、サブプライム問題が徐々にその姿を見せ始めていた。それでも、当時CitiのCEOだったチャック・プリンスが言っていたように、音楽が鳴っている間は踊り続けなければならなかったし、事実、音楽と踊りはそこから一年以上鳴りやまなかった。

結局、2008年の秋にリーマン・ブラザーズは破綻した。音楽が止まり、流動性が干上がり、海の色が変わった。でも、それは束の間のことだった。流動性は中央銀行によって潤沢に供給されたし、音楽もすぐに再開した。変わってしまったのは、海の色と歌詞のてにをはだけだった。

 今年に入って、僕は友人に薦められて「リーマン・トリロジー」を観た。ロンドンのナショナル・シアターで上演された三幕劇を撮影したもので、日本では池袋のミニ・シアターしか上映していなかったけれども、静かな話題になっていたものだ。名前が示すように、この劇はリーマン・ブラザーズの歴史に関するものだ。一九世紀半ばにアメリカに移民したユダヤ系ドイツ人のリーマン兄弟が、アラバマ州の日用品店から綿花取引に手を広げ、子孫が大投資銀行に成長させていく過程を描いている。

第三幕のクライマックスでは、創業者兄弟の孫世代で四十年以上にわたってリーマンを率いたボビー・リーマンが踊り狂う。ひたすら踊り狂う。それでも音楽は鳴りやまない。踊り狂いすぎて、ボビーは自分が死んで墓の中にいることすら気づかない。おそらく、ボビーはリーマン・ブラザーズが破綻したことも知らずに、今でも墓の中で踊り続けているのだろう。「オドルンダヨ。オンガクノツヅクカギリ。」僕の頭の中に羊男の言葉がこだまする。

僕は六郷橋に差しかかっていた。東海道線と京急線がまるで追いかけっこをするかのように、ごとごとと川崎を目指していた。ここは東京だ。電車ですら、いや、電車だからこそ競い合わなければならない。それが嫌なら、少なくとも熱海か三崎口まで行くしかない。そうでなければ、どこか異国の地にでも行くしかない、と僕は多摩川の河口のほうを離陸していく飛行機を見ながら思う。でも、それは無理な話だ。第一、僕は陰性証明書を持っていないのだ。


 僕がその落書きのところまで戻ってきた時には、もう日がだいぶ傾いていた。多摩川の向こうには武蔵小杉のタワマン群が蟻塚のようにそびえたち、夕日に染まっていた。高度資本主義社会、と改めて僕は思った。田園調布の一戸建てがファッショナブルな時代はとっくの昔に終わり、今では武蔵小杉のタワマンがファッショナブルなのだ。製造業の空洞化による南武線沿線の衰退の流れを反転させたのは、タワマンへのホワイトカラー・パワーカップルの集積だった。交通の要衝における土地の高度利用。経済のサービス化。東京オリンピックが終わってもタワマン価格は下がるどころか上がり続けた。仕方がない。人々は東京を目指し続けるし、金利はうんざりするほど長期間にわたって低下してきた。そしてなにより、東京の人々は序列が好きなのだ。タワマンの高層階ではたとえ米がうまく炊けないとしても、階数という明確な序列に確かな価値があるのだ。

さすがにハーフマラソンくらいの距離を走ったせいか足が痛む。僕がその落書きの前で立ちすくんでいると、頭上に轟音が鳴り響く。のぞみが多摩川を越えて東京を貫こうとする音だ。そして、その音が鳴りやまないうちに、湘南新宿ラインがのぞみよりはくぐもった音を鳴らしながら通過していく。この二つの路線は、東京の中心、皇居を迂回するようにして、一つはその東の縁を、もう一つは西の縁をなぞって、せわしなく行きかう。かつてロラン・バルトは、皇居を東京の空虚な中心といった。そして、東京では

空虚な主体にそって、〔非現実的で〕想像的な世界が迂回してはまた方向を変えながら、循環しつつ広がっているのである。

 ロラン・バルト、宗左近訳『表徴の帝国』、ちくま学芸文庫、54-55頁

ともいった。東京では、想像の中では誰もが非現実的な大跳躍することができるし、それを本当のことのように他人に吹聴もできる。だが、現実には誰もが、終わらない歌に合わせて足をもつれさせながらステップを踏み続けるのに必死なのだ。

短い週末はもうそろそろ終わりだ。僕もまた明日から軽快にステップを踏めるように、せめて今日は早めに休もう。僕は、疲れた足を引きずりながら多摩川河川敷を後にして、東京へと帰っていった。

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