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『Beep21』光吉猛修インタビュー『セガハードヒストリア』コンプリート版


セガの"歌うサウンドクリエイター"として有名な光吉猛修みつよし たけのぶ氏。「デイトナUSA」の曲に歌を入れ、一躍その名をとどろかせた光吉氏は、セガサターン時代にCD-DAの登場によって、AMを超えるサウンドを家庭用ゲーム機で実現していく。その模様は、光吉氏自身の執筆による回顧録かいころくコラム「SEGA SOUND STREET on Beep21」くわしく語られる予定だが、その前段としてセガハードヒストリアで掲載されたインタビューのコンプリート版をお届けする。

6/12(水)から連載開始予定の「SEGA SOUND STREET on Beep21」

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【光吉猛修 (みつよし たけのぶ)】1967年12月25日生。セガ入社は1990年。アーケードで「バーチャファイター」「デイトナUSA」などを手がけ脚光を浴びる。「VirtuaFighter2 DANCING SHADOWS.」では歌も歌えるサウンドクリエイターとして名を広め、その後セガのオフィシャルサウンドユニット「H.」などで活躍。近年は音ゲーにも関わり、サウンド周りで幅広く活躍中だ。

──光吉さんは今も現役でいろんなところでご活躍されていますが、最近のメインは?

光吉 僕としては、仕事はほとんどまったく変わってないんですが、昔はアーケードゲームや家庭用ゲームタイトル向けにいろんな楽曲に関わってましたが、最近は「バーチャファイター」「カードゲーム」「音ゲー」といったあたりをメインにしてサウンドにたずさわっている感じですね。

どこか外国っぽい雰囲気があったセガ

──光吉さんはセガへの入社が1990年。もう30年以上前となりますが、当時のセガはどんな感じでした?

光吉 確かまだ(株式公開が)二部上場という段階で、一部上場はしてなかったんじゃないかな。

──二部上場が1988年4月で、一部上場は1990年10月。まさに勢いがあった時代ですね。

光吉 僕がセガに入ろうと思った時は、全然そういうのはわからなくて。勢いがあるとかもわかってなかったです。だけど、セガって、いい意味で得体えたいが知れなくて。なんか外国のにおいがするというか。

──セガは元々が外資系でしたが、入社当時(1990年)もそういう雰囲気があったんですかね?

光吉 はい。そういう雰囲気をしっかりただよわせた、まだそんな大きくない会社だったんですけど、僕個人としては学生の時に「ギャラクシーフォース(1988年)」のゲーム音楽をいて、ゲーム音楽そのものに興味を持ったんですね。セガの社員って、会社員なのに音楽を生業なりわいにしてて、S.S.T.バンドみたいなバンドが会場で演奏したりCDも出したりしてて。プロのミュージシャンとレコーディングもしてるし、よくわかんないけどいいなぁ、と思ってました。大学では、軽音楽部を4年間やってたので、できればセガで音楽でめしを食いたい、みたいな自分のニーズと合致がっちして入ったんですね。なので、その時のセガのイメージは、会社としてそんなに大きいイメージもなかったし、外国っぽかったし、でもなんか、自分のやりたいことが、学生時代に4年間やってきた趣味というか、音楽活動がかせるところかなっていうイメージで(セガに)入ってきました。

──光吉さんは学生時代はどんなゲームをやってました?

光吉 当時のナムコさんの「三国志 中原の覇者」は大学4年の時にハマってしまって、あやうく卒論を逃すところで(笑)。あとは「スパルタンX」とか、PCエンジンで「ストⅡ」とかやってましたね。当時はどちらかというとパソコンのゲームの方が好きでした。PC6001mkⅡを持ってて「サラダの国のトマト姫」とかやってましたね。

──アーケードゲームとかは?

光吉 アーケードのゲームを遊び始めたのって、「スペースインベーダー」がブームになった頃で、当時はちょっとこわいイメージのゲーセンに行って、ちょこちょこプレイする程度だったんですが、大学4年の時に後輩が車の中で流した「ギャラクシーフォース」を聴いてから、「これ音色が全然違うんだ、今までのゲーム音楽と」と思って、そこから見方が大きく変わり始めました。就職先でゲーム業界へ行くって決めたときには、ゲームはいろいろとやりましたね。

──セガに入って最初の配属先は?

光吉 鈴木裕さんがいる第8研究開発部でしたね。

▼参考

当時はアーケードで”体感ゲーム”を開発していたAMの部署で、そこのサウンドスタッフとして僕は3人目でした。一番上が、Hiro師匠で、「ターボアウトラン(1989年)」の曲を作った高木保浩(YAS)さんが先輩にいて、その次に僕が入って。高木さんは音大出身でしたけど、僕は経済学部出身。音楽畑じゃないという意味ではめずらしかったかもしれませんね。

──その頃の8研はAMだけでなくCS(メガドライブ)もやっていた?

光吉 8研自体がアーケードだけじゃなくて、メガドライブの「ヴァーミリオン」みたいな作品も作ってたり、結構いろいろやってたんですよね。Hiro師匠は「レンタヒーロー」をやってましたし。僕はその(「レンタヒーロー」の)主人公の山田太郎の声をやりました。「やあー!」とかバトルのところの声とかを(笑)。

▼参考

その後、コンシューマとアーケードのサウンドが組織としてくっついて。その時に「バーチャレーシング」の移植をメガドライブでやって。その曲のコンバート(移植)とかをやったんですね。DSPかなんか積んで。

▼参考

──「レンタヒーロー」の山田太郎にしても、「バーチャファイター」の声(アキラや影丸)にしろ、”声をやる”っていうのは、たまたま?

光吉 なんだったんですかねぇ(笑)。たぶん「やってみる?」って言われたのかもしれないです。そこで僕も(そういうのは)きらいじゃないので、「やります、やります」みたいな感じでやったのかもしれませんね。

──この頃のセガ社内だと、家庭用ゲーム機の扱いはどんな感じでした?

光吉 僕の認識では、当時はアーケードの方が音も映像もクオリティが高かったじゃないですか。なので、そういう意味ではメガドライブとか、後のセガサターンもそうですけど、当時のアーケードのゲームは、同じ部署で移植したほうが相乗効果が出せるとして、AMとCSとでお互いに立ち位置を分けて存在していたイメージがありますね。

アーケード以上の音楽を作ろうとしたセガサターン

──このころになると、アーケードもMODEL1、MODEL2とCGボードにシフトしていき、家庭用も次世代のスペックへと移行していきましたが、セガサターンの登場で一番変わったのはどのへんでした?

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