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うわべだけのパラドクス

短い時間の長い瞬間
20話[うわべだけのパラドクス]

7階の窓から見る東京の街は、高いビルや低いビルが遠いところまで余すところなくひしめきあって、大勢の人々が行き交い、車やバイクがひっきりなしに走り、デリバリーの自転車もぶつかりそうになりながら目的地へ急いでいる。やはり東京は日本の中心なのだなと菜津は思う。
生まれてから33年間ずっと東京に住んでいるが、朝昼晩じっくりと東京の街を眺めて過ごしたことはなかった。
旅好きで何度も飛行機やセスナには乗っていたが、空の上から見る街と建物の中から見る街とは違う。建物の中から見る街はどこか自分と繋がっている部分があるように思えて今にもそれらが襲いかかってきそうな不気味さがあった。
菜津が入った病室は4人部屋であったが、菜津を入れて今は2人しかいない。入り口を入って左右に分かれて2台ずつのベッドが並んでいて、菜津ともうひとりは左右に分かれそれぞれ窓際のベッドにいる。
もうひとりの人は年配の女性で初日に挨拶を交わしたが、喋るのさえ辛そうな症状を抱えてらっしゃるようで、それ以来目が合うと会釈をするくらいで喋ることもなかった。
看護師が巡回の時に、「オオハラさん、オオハラカズエさん、ご気分はいかがですか?頭痛いの治りましたか?」と、問いかける看護師の声でオオハラカズエという名前なんだなということだけは知っていた。

菜津は入院して5日が過ぎようとしていたが、毎日何らかの検査がありその都度苦しい思いや痛い思いをしているが、何も結果を知らされないまま6日目の朝を迎えていた。
体調に変化はない。以前は食後に胃が痛むことがあったが、薬のおかげかそれもなくて病院食も思ったより美味しく完食している。オオハラさんの辛そうな顔を見るたびに「こんな私が入院してていいのかしら」と思ってしまうほどだ。
朝昼晩の病院食を写真で撮って「おいしかったよ。完食しました」というメッセージを付けて母に送っている。母が心配しないようにという菜津の配慮でもあるが、入院する朝に父が言った「お母さんのことをよろしく」というのはそういうことなのだろうと思う。

昼食を終えてお茶を飲んでいる時に、斉藤優里亜医師が病室に入って来た。
「あらっ、顔色よさそう。いろいろ検査大変だったでしょ」
まるで友達のように話しかけられて菜津は少し戸惑うが、斉藤優里亜という名前に似合わない少し田舎っぽい素朴な笑顔に自然と菜津も笑顔になる。
「この部屋は特別室の次に眺めがいいのよ、今日のような天気の良い日は気持ちいいわね。夜は夜景が綺麗だし……体調はどう?痛みとかない?」
「お薬が効いているのか痛みもないです」
「そう、よかった。さっき茂木先生に会ってきたのよ。検査結果が出たみたい。今日の午後か月曜になるかもしれないけど茂木先生の方からお話があると思うわ」
「わかりました。もう病名はわかっているから……あとは治療方法ですよね」
「そうねぇ、治療方法もいろいろあるから茂木先生としっかり話し合うといいわ」
「はい」
「じゃ、時間見つけてまた来るわね」
「ありがとうございます」
斉藤優里亜医師の顔の表情だけでは、自分の症状がどの程度なのかはわからなかった。詰め寄って聞いてもきっと困らせるだけだと思い聞きたい気持ちを抑えて斉藤優里亜医師の背中を見送った。

その日、茂木医師が現れることはなかった。

月曜日の朝、看護師がいつものように体温と血圧を測りにやってきた。
「食欲はありますか?痛み等はないでしょうか...」
いつもと同じ質問をされていつもと同じように
「大丈夫です。食欲もあります」と答える。
「それは良かったです。食事はある程度リクエストできるんですよ。食欲がない時はお粥とか素麺やパンもいろいろ種類がありますし、体調の変化があったら遠慮せずにおっしゃってください」
若くて可愛らしい看護師は、希望に満ち溢れた顔で話しかけてくる。
この笑顔に救われる患者も多くいるのだろうが、この笑顔に希望を失う患者もいるのではないかと考えてしまう。
菜津は、自分はまだそのどちらでもない。まだ何も始まってはいないのだからと思っていた。

看護師が去ったあと、スマホを立ち上げた。最初に現れた画面に

2022年4月18日(月)
今日のスケジュール
亮太の誕生日

と表示された。
スケジュールがある時は画面に大きく表示されるように設定してあったが、入院してからは公私共にスケージュールなどなく設定したことさえ菜津は忘れていた。
亮太というのは10才離れた菜津の弟だ。
こんな時に彼氏の名前でも出てくれば自分ももっとやる気が出るのかもと苦笑するが、菜津に彼氏と呼べる相手はいなかった。特に仕事ばかりに打ち込んできたわけでもなく、男嫌いというわけでもないのだが、ハキハキした生き方と性格が女性には慕われるが日本の男性陣にはウケが悪い。
以前付き合った彼氏に「菜津は悪い人じゃないけど、一緒にいるとちょっとバカにされてるような気になる」と、別れを切り出されたことがある。かといって女らしく振る舞ったり、弱いふりをしたりして男性に甘えるのは虫唾が走るくらい嫌だった。菜津は「あっそう。じゃもうダメだね」とあっさりと別れを受け入れた。

亮太にLINEでメッセージを送った。

『亮太、誕生日おめでとう。
 こんな状態でプレゼントも買いに行けないからPayPayで送金するね。
 何か欲しいもの買って。
 楽しい誕生日になりますように…』

そのあと、PayPayから2万円を送金した。
最初は1万円でいいかなと思ったが、たぶんこれが最後の誕生日プレゼントになるだろうと思い、来年の分も上乗せして2万円にした。
「これが最後の…」ということがらがこれからどんどん増えていくのだろうなと菜津は思った。
3分もしないうちに返信があった。

『あざ〜っす。太っ腹だねぇ。感謝、感謝。
 大変なのに、ほんと ありがとな』

なんだか涙が出そうになる。
断ち切るようにスマホの電源を落とした。
サイドテーブルにスマホを置いたと同時にドアをノックする音が聞こえて、茂木医師が入ってきた。
「おはようございます。体調はいかがですか?」
「特に変わったことはないです」
「そうですか、いろいろと検査お疲れさまでした。それで治療方針がほぼ決まりましたので少しお話しさせてもらってもいいですか?」
「はい。お願いします」
「一番心配してたのは腹膜への転移だったんですが、それはなかったのでひと安心しているところです。手術という意見もあったんですが、当面は化学療法で進めていこうと思っています。数種類の抗がん剤を組み合わせて使用していきます。副作用等は確かにありますが、まだお若いからなんとか頑張って耐えて下さるかと思ってるんですが」
「どんな副作用があるんですか」
「具体的には、全身の倦怠感、吐き気、耳鳴り、味覚異常、抜け毛などが主ですが、それは個人差があります。柴田さんにどのような症状がどれほどの強さで出るか、それはやってみないとなんとも言えません。同意していただければ明日から投与していきたいと思っていますが、当院はセカンドオピニオンなども対応していますから、他の病院で診てもらいたいという希望があればそれも対応できますので……」
そう言って茂木医師はファイルから同意書を出してきた。
「これを受けないと、私の体はどうなるのでしょうか?」
「たぶん、ガンが転移して全身に及ぶでしょう」
「そうなるまでどのくらいなんですか?」
「おそらく、月単位です」
「そうですか」
「今すぐでなくていいです。よくお読みになって、よくお考えになって同意していただけるならサインをして看護師に渡してください。もし何か質問等があればいつでも看護師を通して言ってくだされば説明に参ります」
「わかりました」
「それから、最近は化学療法といっても通院でできる時代なんですが、柴田さんの場合、急変の恐れがある状態なので入院でお願いすることになります。そこらへんもご了承ください。それでは、よろしくお願いします」
そう言って茂木医師は背中を向けた。
この茂木という医師は愛想はまるっきりないけど、信頼できるかもしれないと菜津は思った。言いにくいことをはっきり言ってくるという点で医師としても人間としても菜津は好感が持てた。
「でも私にどんな選択肢があるというのだ。これをやらなけば他に何があるというのか?同意するしかないじゃないか」と、用紙を見ながら思う。
「セカンドオピニオンという方法もあるのかもしれない。でもきっと同じだろう。他の病院に行ってまた最初から苦痛な検査をいくつも受けるなんてそんな気力も残っていない。茂木医師に、この病院に任せるしかないのだ」そう覚悟した。
覚悟ならとっくにできているはずだと思っていた菜津だったが、「全身の倦怠感、吐き気、耳鳴り、味覚異常、抜け毛…」という茂木医師の言葉が頭の中を行ったり来たりしている。いよいよ治療開始となると自分が思っていた覚悟など何の役にも立たないのだなと思った。

サインをした。
昼過ぎに巡回に来た看護師に同意書を手渡した。

ベッドに寝転がって空を見る。
セスナが飛んでる。
もう一度どこかに旅に出たかったなと思い菜津は声を殺して泣いた。


つづく


*1話から20話までマガジン『noteは小説より奇なり』に集録済。

あらすじ
それぞれが何かしらの問題を抱えて生きている30代の複数の男女がいる。まったく違った時間の中で違った価値観で生きているが、それぞれはどこかでちょっとずつすれ違っていく。そのすれ違いは大きな波を呼ぶのか、単なるさざ波のようなものなのか……
病気、薬物中毒、離婚、隣で起こっていても不思議ではない物語は徐々に佳境を迎えつつある。
何も知らぬ者、すべてを知った者、それぞれが少しずつ近寄っていく。

主な登場人物
柴田菜津:東京で働く女性
高東剣志:東京で働く男性
吉岡美涼:剣志の別れた妻
佐伯綾乃:剣志の現在の恋人(美涼の高校の後輩でもある)
吉岡(高東)美佳:剣志と美涼の子供
茂木:菜津の担当医師
斉藤優里亜:菜津の担当医師

読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。