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否応なしに動き出す3人の時間

短い時間の長い瞬間
26[否応なしに動き出す3人の時間]

美涼は、居酒屋の店長のところから飛び出してきて、しばらく勢いに任せて歩いていたが商店街の中程にあるベンチに座ったまま動けなくなった。
どこが痛いとか苦しいとかではなく、頭から動けと指示を出すのだがその指示に体が従ってくれない。頭と体がまったく違う人間になったような感じだった。背もたれにもたれ掛かり空を見る。東京の空ってたいした空じゃないなと思う。
動こう。こんなところでくたばってる場合じゃない。動かないと何も始まらないと気持ちを奮い立たせ立ち上がった。よろけながら20メートルくらい進むとヒラドツツジの植え込みがあった。均等に間を開けて植えられているツツジの周りにはコンクリートのブロック塀があり、美涼の腰より少し低い高さになっている。
美涼はその塀に手をつきながら歩くが、何度もその塀に座りそうになっては立ち上がりを繰り返していた。しばらくしてとうとう我慢しきれず幅10センチほどの幅の塀に座り込んでしまった。
通りを歩く人がチラチラと美鈴の方を見ている。でも誰も「大丈夫ですか?」と声をかける者はいない。
次第に手の震えが出始めた。そして心臓の鼓動が激しくなる。
「もう、疲れた。嫌だ」とつぶやく。
人通りが途切れた瞬間、美涼は後ろのツツジの植え込みの中へとゆっくりと仰向けに倒れていった。体中のすべての細胞が美涼の体を支えることをやめてしまったかのようだっく。スローモーション映像のようなその動きの中で青い空と商店の店先にある大き時計が美涼の目に入った。
時計は10時57分をさしていた。

自転車を急いで漕いでいるとうっすら汗をかく。
「自転車って風を受けて涼しいんでしょ」とよく聞かれるが、それは季節による。夏などは走っている時は風を受けて多少涼しいが、信号で止まったりするとものすごい暑さに見舞われる。今日はまだ5月だというのに真夏のような太陽が剣志の背中を目掛けて熱を発散させている。
5月の風はもっと気持ちいいはずじゃなかったのかよ〜と思いながら、剣志は取引先へ向かって急いでいた。
自社での会議が予定より長引いて、会社を出るのが遅くなってしまった。取引先へは「少し遅れます」と連絡を入て了承されたものの、できるだけ早く行って誠意を見せたかった。
いつもの交通量の多い交差点に差し掛かった。ふと菜津のことを思い出した。菜津とはこの交差点付近で接点が2度ほどあった。綾乃から菜津の様子は聞いているが、人生ってどうなるかわからないもんだなとふと寂しさがよぎる。
信号が青から赤に変わりそうだ。
ここの信号は長い。こんなところで止まってられない。
剣志は「よし!」とつぶやき太ももに力を入れてスピードをあげる。
交差点の三分の一まで来たところで信号は赤になり「ヤバい」と思いながらも渡り切ろうと漕ぎ続けた。ふと横を見るとかなりのスピードで右から直進してきた大型バンの車体が剣志に向かって走ってきていた。
何かが爆発してような音とともに剣志の体と自転車が宙を舞った。
青い空がジェットコースターで回転した時のように丸く見えた。不思議とそれはとてもゆっくりとした回転で、そして商業ビルの正面玄関にある飾り時計が目に入った。
10時57分をさしている。
「あぁ、もう間に合わないや」と思った瞬間に周りから悲鳴が聞こえた。

ほんとうにこれでよかったのだろうかと思いながら菜津は海岸を歩いた。
菜津は飽きずに毎日海岸に散歩に来ている。何をするわけでもない。ブランケットを敷いてそに座り海を眺めているだけだ。
時々、波打ち際まで行って運が良ければ見るかるという翡翠を探してみるがまだ見つけられずにいた。
昨日はタクシーに乗って海岸近くにある神社に参拝した。何をお願いするか悩んで、「健やかに死なせて下さい」とお願いした。お願いした後で「健やかに死にたいなんて変な表現だな」と自分で可笑しくて笑った。
数組のカップルや家族連れが海岸を散歩している。
時折「キャッ」「アハハハッ」という楽しげな声も聞こえてくる。
母がどうしても一緒に来たいと言い張って、それでもひとりで行かせてくれと頭を下げてここまで来た。
私はとんでもない親不孝をしているかもしれなかったが、病院で死んでいくのが親孝行だとも思えない。

「最後は、姉ちゃんの充実した楽しそうな顔を俺は見たいよ」
弟が最後に両親に言った。
その言葉を聞いて、泣き崩れながらも旅に出ることを許してくれた。
父に駅まで送ってもらった。
その時父は「気をつけてな」とは言わずに「楽しんできなさい」と言った。
「うん。思いっきり楽しんでくるから」と言って菜津は電車に乗り込んだ。

ヒスイ海岸の近くにある旅館に宿を取って今日で3日目になる。
病院からもらった大量の薬と何かあった時のための診断書と緊急連絡先などが書かれた用紙をスーツケースに入れて、宿の人には正直に事情を話して何かあったらスーツケースの中に書類が入っていることも伝えた。
本来ならこういう客は断られるのだろうが、そこの宿のご主人のお父様が私と同じ病気で亡くなっておられるとかで、「これも何かの縁ですね」と言って宿泊を受け付けてくれた。
食事も体調を聞いて、お粥や柔らかく煮たうどんなどを出してくれて不思議と食欲も増して、美味しく食べることができている。
時折、胃の痛みに襲われることがあるが薬を飲むと嘘のように痛みが止まる。かなり強力が薬なのだろうと思う。

風が通る。
涼しくてとても気持ちいい。
今朝、母から電話があって「東京は夏みたいな暑さよ。まだ5月だっていうのにさぁ。お父さんに頼んで扇風機を出してもらったわ」と笑っていた。
宿の人が水筒に白湯を入れて持たしてくれた。
冷たいものや熱いもの、炭酸系、カフェイン系などはまったく飲めなくなった菜津にとって白湯が唯一の飲みものとなった。
波打ち際で翡翠を探すカップルを見ながら、水筒を開けて水筒の蓋に白湯を入れた。ゆっくりと啜るように飲む。
しばらくして少し吐き気がしてきたが、吐き気などいつものことでもう慣れっこになっていた。
スマホが鳴った。綾乃さんからだと気づいた菜津はすぐに出た。
「菜津さん、どんな感じ?」
「おかげさまで、すごく楽しい旅をしています」
「それは良かった。翡翠は見つかった?」
「毎日海岸に来てるけど、まだなの」
「そっか〜、見つかるといいね。でも無理しないでよ。疲れたら宿で休むようにね」
「わかってる。綾乃さんもお仕事頑張って。それから主婦業も」
「ありがとう。翡翠のお土産待ってるよ〜。それじゃこれから仕事だからまた電話するね」
「またね」
電話を切った瞬間、菜津は胸が苦しくなって吐いてしまった。
それはいつもの吐瀉物とは違って、真っ赤な色をしていた。
それから何度も何度も咳をして、何度も何度も赤い物を吐き出した。
横になった。
波打ち際のカップルが「なかなかないね〜」と話しながらどこかへ行こうとしている。
握りしめたスマホの画面には10:57と表示されていた。

**

赤いツツジの花の中で、人々が行き交う都会の街で、静かな海岸の片隅で、
それぞれがそれぞれの時を迎えようとしていた。


つづく


*1話から26話までマガジン『noteは小説より奇なり』に集録済。

あらすじ
それぞれが何かしらの問題を抱えて生きている30代の複数の男女がいる。まったく違った時間の中で違った価値観で生きているが、それぞれはどこかでちょっとずつすれ違っていく。そのすれ違いは大きな波を呼ぶのか、単なるさざ波のようなものなのか……
病気、薬物中毒、離婚、隣で起こっていても不思議ではない物語は徐々に佳境を迎えつつある。
何も知らぬ者、すべてを知った者、人生を悟った者、夢を見続ける者それぞれが少しずつ近寄っていく。
そして、それぞれの運命の日を迎えようとしている。

主な登場人物
柴田菜津:東京で働く女性
高東剣志:東京で働く男性
吉岡美涼:剣志の別れた妻
高東綾乃:剣志の現在の妻(美涼の高校の後輩でもある)
美佳:剣志と美涼の子供
茂木:菜津の担当医師
斉藤優里亜:菜津の担当医師





 


読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。