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[ショート・ショート] ある日のマシーン日記

「何とか言えよ」
地方のサラリーマンだろうか、少し薄くなった後頭部に何かを塗りつけて、かなり流行遅れのコートを羽織ってホテルのカウンターにいる女性スタッフに対して声を荒げている。
「と、申されましても...」
「何だよ」
「この件につきましては十分ご説明申し上げておりますが...」

少し離れたコーヒーブースで私はその会話を聞いていた。
サラリーマンが声を荒げている理由はわからない。
わかる必要もない。
私の長年の経験から、こんな時は客の方が勘違いしていることの方が多い。『わかる必要もない』と思いながら、この会話に聞き耳を立てているのは、なぜだろう、自分でもわからない。
しばらく押し問答があってサラリーマンは諦めて去って行った。
ほらね、やっぱり…と思う。
そして私は見逃さなかった。カウンターの中にいる女性スタッフがそのサラリーマンの後ろ姿に向かって小さく中指を立てたのを。
ふふふっ。だから人間っておもしろい。誰もが自分以外は敵だ。
提示されたルールの下、あるいは暗黙のルールの下、それらを守る人たちでこの敵と敵は均整を保っている。それがわからない人は後ろ姿を見せるしかない。そして背中に中指...が。

私の斜め前にいるサラリーマンの二人は、さっきから難しそうな仕事の話を延々としている。難しい話といっても、本人たちが難しいと思ってるだけで私には片耳だけでも理解できる。考えてみれば私の方がより高度な仕事をしているのだから。まぁスタッフに声を荒げているサラリーマンに比べたらまだこの二人の方が均整を考えている部類の人間で可愛げがあるというものだ。

おっと、他人のことばかり観察していたら、違う客が私の胸のあたりにコーヒーをこぼした。私の胸元に大さじ一杯程度のコーヒーがかかったが、私が着ているのはコーヒーと同じようなダークな色なのでまったく目立たない。そういうわけで私の濡れた箇所を拭くことさえしないのだ。目立たなければ無かったことにしようとするこのおばさんは罪深い。紙コップに蓋を取り付けるときにうまく蓋がはまらなくて手が滑ったようだ。こういうことはよくある。すぐに飲むなら蓋なんてしなくていいのに、スターバックスの流行りのせいで蓋をしてそこから飲むのがお洒落だと思っているから厄介だ。

しばらく穏やかな時間が流れる。
まだお昼の時間には間があるせいか、ロビーを行き交う人は急ぐ風でもなくゆっくりと通り過ぎていく。
そう思っていたら、ちょっと離れたエレベーターホールの方で騒ぎが起こった。人々が(特に女性たちが)「ひゃ〜」「きゃ〜」「いやぁ〜」と口々に叫んでいる。そしてその中央にいたのは、さっきのカウンターで揉めていたサラリーマンだった。あいつ向こうでも騒ぎを起こしているのかとそちらの方を注目していたら、そのサラリーマンがこっちに向かって走ってくる。手には…えっ?ナイフ。どんどん近づいてくる。右手にナイフを持ちさっき対応していたスタッフがいるカウンターに乗り込んで行った。女性フタッフの腕を掴み「バカにしやがって」と叫びながら刺す。私はひやぁ〜と思うがどうすることもできない。警備員が数人走ってきて取り押さえようとするが逃げてこっちに向かってきた。そこら辺にあるものを薙ぎ倒して暴れている。私の正面に来た。私と私の周りにある諸々のものが破壊された。
お湯が飛び出し水浸しで、砂糖やミルクも散らばった。私の体は電気コードで繋がれているのだが、それも切られた。難しい話をしていたサラリーマンたちやおばさんはどうしてる?いない。うまく逃げたな。

「ふざけんじゃないわよ、このジジィ」と女性スタッフが叫んでいる。
彼女の怒りは、そっと中指立てて...もうそれどころじゃない。

誰も怪我はしていないようだ。
そりゃそうだろう。あのサラリーマンが持っていたナイフはレストランで使用されるカトラリーのナイフだ。脅かすにはちょうど良かったかもしれないが、相手に決定的なダメージを与えるほどの威力はない。
そうなると、私だけがここで死んでしまうわけだ。痛点がないのが私の強みでもあるが、人間と違って逃げることができないのが弱みである。数時間後にはメーカーから引き取り担当が来て回収されていくのだろう。

「えっ、コーヒーないの?ショック!」
若いカップルがやってきて私の姿を見てため息を漏らす。
この光景の中でもコーヒーは必要とされる。
『馬鹿だな人間って』と思った瞬間にシュシュシュシュシュ〜という音を立ててかすかに残っていた電流が切れた。

私が優秀なコーヒーマシーンから業務用廃棄物になった瞬間だ。



読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。